トルコ(4)カッパドキアの午後

【トルコ料理の前菜】

今日のランチはトルコ代表料理、ケバブ。
それまでの前菜、スープは前回と同じ。

このように小皿が並ぶのも日本人にとっては食べやすいのかもしれない。
スープは(merrimek corbasi)と言って結婚式スープ。ちょっとおいしい野菜スープ。結婚するまで食べられないのかなあ~~
熱い日差しの中、木々の下に設けられたランチの席は本当にいい風が吹く。気持ちよい。イスラムは場所によってはお酒一切禁止なのだがここは大丈夫。そういえばカッパドキアはその地質的、気候的にもワインに最適だそうだ。各地で頂くワインもいかにも太陽の甘みを一杯受けたと言う南の味でおいしい。ちなみにワインショップで購入したものには(2010年ブリュッセルワインコンテスト1位)と書かれていた!なんという偶然。 例の「肩からかつぐ」ワイン入れと地ワイン。お土産は増えるばかりだ!

【ケバブの壺】

ケバブはツボの中に肉やら野菜(なす)、ジャガイモ、人参などを入れ本当は地中で煮炊きする。実際壺ごと出てくる。今はアルミホイルだが、昔はその壺の蓋を破る役の人がいてうまく破れないと食べる前に持っていかれてしまったそうだ!

その役はベルギン。すっかり私たちとうちとけて、道子の(お姉さん)なのだと言う。と言う事は私は彼女のお母さん??「ババ(パパの事)」と迫られるバートは困惑顔ながら嬉しそうだ。
こんなことも旅の大事な楽しさの一つ。トルコ語も食事の度に語彙を増す。もし彼女が他の言葉を話せていたらきっと私たち、トルコ語は何も覚えないで帰っただろう。

道子が帽子を忘れてカンカン照りの中困っているとさっと自分のスカーフを出しターバンを巻いてくれた!これでろくろを回す姿はどう見てもアラブの少女?いやトルコの少女だった!

【ターバンを巻いてくれるベルギン】【姉妹誕生!】

【左門とマフムット】

またまた脱線するが。オスマントルコ時代アラブの言葉を使っていた彼らはいつからどのようにしてトルコ語に変換していったのだろうか・・またオスマントルコ以前のトルコはどうなっていたのだろうか・・・と今ネットで調べてみた。
セルジュクトルコという名前がある。552年にtorkyという首都を建設したトルコ民族の源流が、モンゴル高原から8世紀ごろトルコに侵入、1200年モンゴルからの侵攻で衰退、オスマン(1258-1326)の繁栄までトルコ語の原型となる言語を使っていた、とある。

「セルチェック」と言っていたマフムットの言葉を思い出した。彼は英語を話す。子供たちは英語を勉強してはいるが実際英語しか通じない環境になったのは初めてだ。特に息子・左門は恥ずかしさもあってなかなか話さない。
それでもマフムットの性格とこの旅のおかげで帰りの飛行機の中ではFinancial Timesを読んでいた。
親としてこんなにうれしいことはない!

はてどこまで書いたっけ?

これからの訪問地は原石の加工、宝石屋。いちいち止まらなくても・・と思うのだがマフムットに言わせると「政府奨励なんです」と言う、彼もベルギンも政府関係で働いているらしい・・・共産主義でもあるまいし。
でもそれがトルコの現状だ。それもあってロシア系旅行者が多いのかな?

私の生徒たちや周りを見ていてもそうなのだが旧ソビエト連邦とその周り、東欧の人達は本当に教育が違う。
きちんとした基礎は社会主義のたまものかもしれない。週1回ばかりのレッスンでは5歳の子供はうまくはならない。良く言われることだが「ヴァイオリニストを育てるにはユダヤママかソビエトのシステムか日本人ママが必要」一昔前の話だ。今はなんと言っても(韓国)が強い。
要するにお尻を叩いて練習させる、そのエネルギー、叡智、忍耐力、先生への絶対的な尊敬。それなくして「ヴァイオリニストを育てる」ことなどできない。
ロシア人だらけだった海のホテルももう少し入り込めば皆が皆、無愛想ということではない。「習慣」から彼らは挨拶もしないし、礼儀もないかもしれない。普段食べられない御馳走を「食べ放題」のおいしいビュッフエを見つければ、それこそつかみあいのようにお皿をいっぱいに満たし、その半分をゴミ箱行き・・とする「ゼイタク」もたかが3日間の事と割り切るのかもしれない。そこで働いていたトルコ人たちの食べ物を捨てる役ばかりのうんざりした顔つきは本当に見ていて辛いものがあったが。

またずれた!

「パノラマ休憩、15分ですよ!」と念を押された我々ももうガイドなしにあっちこっち登る。さすがにおばあちゃんは下で休憩。ロバのそばで待っていた。
それにしても登る度に思うのだが小さな穴が多い。

夕方、丘の上に上る。
360度のパノラマは「またパノラマ」と言ってみたところでその変化。気持ちよさは言葉にはできない。
ギリシャの海の(風)に比べて今度はこのカッパドキアの(風)、忘れることのできない体験となった。

【最後のパノラマ地、夕日の中で】【洞窟宿建設中の人達と】

さて今日も終わりに近づいた。
そろそろ帰るかと思いきやもう1軒、絨毯織りの工場に着く。昔ながらの完全手作業に完全自然染料。草木染めだ。
目にしてきたアーモンドや何やらで各種の色がでている。繭から絹糸を取る。染色する。そして織る・・・実に手のかかる。それこそ「石を積み上げて教会を造る」ような気の遠くなる作業を女の人達が機織り機に向かってやっている。若い女性の方が指が細いので2重に縦糸に巻いてゆく作業に向いているのだそうだ。それでもやっているうちにタコが出来て一日4時間以上はできないという。絹を織るのは経験のある人達だ。

【繭から絹糸をとるところ】【指で二重かけにして絨毯を織る女の人】

実は私の母は私の学生時代機織りをやっていた。元々洋裁の得意な彼女は私たち姉妹の洋服はもとより、コンサートドレスもいつも作ってくれた。今でもその才能の半分でもあればと裾上げがぐちゃぐちゃになってしまう私は思う。
そして子供たちの手も少し離れたころ、近くに住んでいらした柳宗孝先生の元、その娘さん由紀さんの指導で我が家にも機織り機が登場したのだ!最初はマフラー、そのうちちょっと高度な模様入り、最後には絹を染めて、スーツ地を造りピンクのスーツを作ってくれた!私が20歳の時だ。成人式に着て、その時写真を撮った父の顔が忘れられない。
なかなか今の親子たち、あるいは西欧の親子たちのようにべったりすることのなかった父親のまぶしいものを見るかのような笑顔。

そしてその年の夏、彼は帰らぬ人となった。

そんなこんな・・・を思い出しながら工房を歩く。
もちろん、最後は(買い物)になる。
きれいなペルシャ絨毯はその周りを歩くと色が変わる。絹地を織るのに1センチ1日かかる?
指で触っても寝っ転がってもざらざらしない。
全くすごい代物だ。

ニューヨークの大会で金賞を取ったという、絨毯

【ニューヨークでオスカー賞を取った絨毯、カッパドキア製】

【道子とベルギン】

外に出るとすっかり夕方。もう8時だ。
ブリュッセルから時差が1時間、緯度もだいぶ南になるここでは日の陰るのもちょっとだけ日本に近づいて、日の暮れるのも早い。9時にはもう暗くなる。

みんなとの楽しい夕食も今日で最期だ。
ベルギンと道子は大層仲良くなり本当の姉妹のようだ。
左門はガイドさんの話を一生懸命聞いている。「ママ聞こえないからだまってて」と口を出しやすい私を制する。
いつも(連れ)のようなつもりで連れ歩いていた彼らも近い将来独り立ちするだろう。いつまでも赤ちゃんに接しているような接し方ではだめなのだ。

今の(一期一会)の時に感謝する。

明日、ベルギンは故郷のメルシンに帰るという。
お別れだ。

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