トルコ(5)シルクロードへの第一歩

3日目、ちょうど私たちの泊っていたお城の反対側で朝の休憩。

ここからベルギンはバスに乗って帰るという。

【お城を反対側からみたところ】【御一行様】

そのあとの訪問地は今現在も人が住んでいるところ。と言ってもすべて穴の中。
軍隊の事務所まで穴の中だが誰もいなかった。

【軍隊事務所】【穴だらけの住居】

【徴税用の壁の印】

また昔の徴税の際、イスラムかクリスチアンかわかるように各家庭の壁に印がついているところもあった。あくまで共存の姿勢だ。

その後ようやくバスはカッパドキアを離れ一路、アンタリヤに向けて800キロの道を行く・・

といいたいところだがガイドのマフムットは私がシルクロードに夢中なことを発見していろいろ見せてくれる。

もう1軒、今建て直し中の隊商の宿に案内してくれた。(Obnikの近く)1200年ごろのものだという。
キリスト教とイスラムがどれだけ共存していたか・・・また商人という特殊な存在がいかにそれを超え又それ以上のアジアの文化も運ぶ東西の「かけはし」になっていたか・・・そこにはトルコ唯一と言われるサルタン時代、イスラム支配の中で十字架を使った壁石があった。

【シルクロードの宿Obnik 】【シルクロード建物の柱】

【十字架が使われている壁石-1 】【壁石-2 】

【緑の噴火湖】【ハッサンダギ】

少し行くと今度は真緑の池、噴火湖だ。
その昔罪人、盗人、悪いことをした人は片手をちょん切られてここに投げ込まれたと言う。
「どのくらい深いの?」と聞くと、「数年前トルコ政府が測ろうとしたのだけれど器具が間に合わず底まで付かなかった。だからわからない。でもきっと潜ったら、金銀宝石たんと出るよ」とマフムット。
確かにこの熱さに(飛び込みたい)衝動にも駆られるが表面にも生き物の姿も見えない。
そう言えばこの近くに水が干上がった塩湖(Tuz Golu)もある。死海まで行かなくても塩の上を歩けるそうだ。

遠くにはハッサンダギ(3286m)の姿も見える。カッパドキアの地形はこれらの火山の度重なる噴火と自然の風化がもたらしたものだ。

いやはや、まだまだ見たいものだらけ。

最後に止まって休憩を取ったバラック小屋でマフムッドに今回の行程を地図で示してもらった。そしてその時ちょっと疑問だった「なぜギョレメを訪れなかったのか?」についても質問した。
彼の返事は「あなたがたが今回見たのはカッパドキアの10分の1でしかありませんよ。カッパドキアを歩くのには最低3日はかかります。今度は地下8階の地底都市に案内しますよ」
「で、シルクロードってこの地図のどこなの?」
「konyaというのが中心地。そこから西には8本の道があり、北上するもの、南下するもの、例えばあなたたちの泊っていたアンタリヤの南、Kemer, Phasselis, Olymposなどは香辛料が有名、逆にKonyaから東にはカッパドキア、そしてKaeseri と続いて行きます」

「と言う事は今通ってきた道はシルクロードなわけ?」
「そうですよ、幹線でした。」

そういって彼はトルコ全体の本をひょいと手に取りいろいろな遺跡の説明をしてくれた。
なんとたくさんあること!!
そのどれもが歴史の証人なのだ。

「で、そこにあなた行ったことあるの?」と恐る恐る聞くと「何度も言ってます、でも東トルコの遺跡を訪れるには3週間は必要ですよ」との答えが返ってきた。しめた!これでガイドも確保できた。

Kaesari以東、道は続きその途中にはイースター島にあるような巨大な顔が山の上に造られている「NemrutDagi」がある。「太陽の神」と言われているが、誰が、どのように、なぜ、作ったのかは分からない、という。

Van湖のほとりには紀元前2000年前ヒッタイト族が作ったという村があり数々の遺跡がある。アンカラの東150キロほどのヒッタイトの首都ハトウーシャ遺跡、またそこから北上すると今度は黒海に出る。
「緑が多いんです。それに人の顔も全然違うしね。鼻が大きくて背が低い」すぐとなりはアルメニア、グルジアだ。友人たち、以前共演したグルジア人の指揮者、ジェンヒク・カヒジの素晴らしいスピーチの数々を思い出す。マフムットも言っていたように黒海周辺の人は「話をするのがうまい」のだ。

イランから南下すればメソポタミア地方に入る・・・そうだ!元々メソポタミア文明などにあこがれていた私が聞いた言葉が「ヒッタイト」という小アジアの古代民族だったのだ!

ますます心は躍るではないか!

うちのアパートの下に住むイラン人にくしくもガレージで会った。彼がイラン人であることも実は知らなかった。今回の旅の話をすると「もしイランにいらっしゃることがあったらイランの本当に素晴らしいところをお教えしますよ」と言われた。まさかこのように繋がるとは思ってもみなかったのだが。これも偶然だ!


今回もしギリシャにいっていたら顔は西洋を向いたままだっただろう。ギリシャ。エーゲ文明、トルコの西にあるエフェゾス、ぐらいが限度だったと思う。
イスラムの頬かむりをした文化も知らずじまいだったと思う。

フランスに行っていたら、お城の生活の折感じたフランス語の出来無さにそっちを向いていただろう。(これはこれとしてこれからの課題なのだが)

スペイン、モロッコ・・そちらアラブ圏に行っていたら全く違うとらえ方だったか、アラビア語はまたちがったものだっただろう。だいたいイスラムとアラブの違いもよくわかっていないのだ!

ピレネー文化、オック語、いずれにせよ、キリスト教地方文化に惹かれるのは堀田善衛さんの本に影響されるところが多い。
うちの母も私よりはヨーロッパを歩いているかもしれない。彼女の興味は「ロマネスク時代」でやはり10-12世紀。ブリュッセルに戻ってから電話したら「ぎょろ目の絵だったでしょ」とカッパドキア洞窟教会の中に描かれていた像のことを指摘した「そう」「スペインのカタロニア地方の教会の絵も同じだよ。そのころのキリスト教徒は何らかの関係があったのかなあ~」と彼女も嬉しそうに会話に加わった。元々80歳のお祝いと思って企画した3年前のギリシャ旅行だった!残念ながら健康状態が思わしくなく当のご本人は行けずじまい。キャンセルしようとしたら子供たちからの非難を浴び、「仕方なく」出かけたギリシャ・・でもあった。
結果は最高のものだったけれど!

今回は「トルコ」だったからイスラム文化と言う側に立って初めてものを見ることができた。

「カッパドキア」だったから「東・・・」すなわち中央アジアから中国、日本と通じる「道」を歩みだせた。

私が長年想い描いてきたシルクロードの最初の一歩になろうとは思わなかった。

これから何度いけるか、どこまで行けるかわからないけれど、元気なうちになるべく多くのシルクロードを歩いてみたいと思う。
トルコから始まって、ペルシャ、イラン、カスピ海、アフガニスタンは危ないけれど、サマルカンド、タシュケント、そしてモンゴル、長安を経て奈良の法隆寺までたどり着いた時、どんな気持ちで仏像を眺めるのだろうか・・・

そのころ、私の中の旅は完結する。

夢はふくらむ!

2011年7月末 ブリュッセルにて
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