Se defendre et Apparaître

今年度初のクラスコンサートが終わって今帰ってきたところだ。
生徒達は長い一日の終わりに「一杯」やっているところで私も参加したいが、「年寄りは失礼します」と彼らに場を渡した。

オーケストラプロジェクト、室内楽試験・・・その他諸々の学校の忙しさの中での事だった。
「クラスコンサート」というと、一人10分から20分ソロのレパートリーを弾く。もちろん彼らにとっては初めて弾く曲目が多いから緊張する。その上今日は学長も顔を出した。いつになく「観客」も多かった。

皆それぞれ良く弾いた。

私は彼らが自由に天を舞うのを見るのが好きだ。

それぞれの性格で音楽に取り組み、心にじ〜んとくる。

様々な問題をかかえ、「こりゃダメだ」と思いながら必死に弾いている姿を見て「よくがんばってるなあ〜 よくデイフェンドしてるなあ〜」と思った。

Se defendreというのはフランス語で直訳は「防御する」だけれど、要するに「良く戦っている」という意味で使われる。善戦したあと何が残るかというと、自ずから現れる Appraître 音楽なのだ。本人は冷や汗ものでも聞いているほうは「なんとのびのびと弾いているのだろう。なんと楽しそうに弾いているのだろう」と思う。そこには「うそ」のない個性があり、我々は安心して身をゆだねることができる。

それが時の芸術なのだ。

10日ほど前、私自身、ベートーベンのコンチェルトを急遽頼まれて4日間で仕上げて弾いた。N響の定期、広上さんとの再共演。実際彼じゃなかったらできなかったかもしれない。テレビ録画、取り直しなしだから生と同じ事だ。サントリーホールという大舞台・・・ といろいろさておいて、何がすごかったかといえば「ベートーベンの音楽」に他ならない。あのコンチェルトを弾く・・・と言うことがどういう事なのか・・・

全くもって「ステージに立ってみなければわからないコワサ」があるのだ。
落とし穴だらけ。オケと絡むと自分がわからなくなる。一人で弾いてたら音楽にはならない。普段練習していたらなんでもないパッセージがとたんにわからなくなる。

よく最近のソリストは自分のパートだけ完璧に弾くからオケなんていてもいなくても同じ・・・ぐらいに思っているいる人もいる。そういう人は「聞く」事もしないから弊害もなく、間違わない。
しかしそれを「完璧ですねえ〜」というのはとんだ間違いだ!!

江藤先生はよくオケに「合わせて」弾いていた。そのための「仕込み」「ここはゆっくり目。ここはクラリネットに合わせて」等「オーケストラと弾ける事などあるのだろうか」と思いつつも学生時代、先生のその真剣さに熱心にしたがった。はたオーケストラには至極親切だったと昔共演した人達は言う。
その分自己に破綻がきたりもしていた。憎めないなあ〜〜

「全部を知って弾いてソリストです」と口を酸っぱくして言われた。

思うに「全部を知る」ということは、どんなに音楽に厚みが出てくるか・・・ただ旋律だけを弾いているヴァイオリンの音にいかに「含み」が出てくるかということだ。

この間ベートーベンの後期のカルテットの練習をしていた時のことだ。
チェロの山崎さんから「こっちを含んで弾いてよね〜」と言われること然り。「その含み加減がわからないから、こうやって6ヶ月前から音合わせお願いしてます」と最初のうちはへりくだっていたものの、それでも「含んで弾く」のはムズカシイ。「又勝手に弾く」という彼女についには頭に来て「含むものあって弾いてよ」とこちらも売り言葉に買い言葉。フツウならばここで喧嘩別れとなるだろう・・・プロの世界では、こんな会話はなりたたない・・・・
と思いきやトコ(山崎さんのあだ名)
「含む物ないかもしれないけどそれでも含んで弾いて」

頭が下がりました・・・

そんな「コワサ」を熟知した上で今回の「ベートーベンのヴァイオリンコンチェルト」を引き受けた理由はただ一つ

「やりたい!!」

弟子の事も置いてきた。子供達の顔も頭をよぎるが、思う感情はあふれ出る。音の質も響きも心の中でははりさけんばかりだ。そんな今までの情報。経験、そして現時点で感じている感情を4日間でベートーベンのヴァイオリンコンチェルトという「額縁」の中に仕込む。

ブリュッセルのみんなには「ごめんなさい!!」

ほとんど左手は内出血?痛くもかゆくもないからだましだまし??
本番の日ゲネプロと本番のあいだ休んでいたらどうも熱い。緊張のせいか脈も速い・・・もしかして風邪?
と言ったって代役が「病気」になる訳にもいかないでしょう。
あのとき感じたこちら側の仕込みと技術と必死の構え。とそれを向こうから押し流されるような力のある波・・・きっとベートーベンなのだろう・・・「まったく何百年経ってもあんたはすごいことをしてくれるねえ〜」と思わず彼に語りかけた。
頭がふらふらしていたのか、熱にうなされたのか、知るよしもないけれど!

寿命・・・など何年あっても足りない。

かつ「音楽」はまぎれもなく「生きている!!」

舞台の上で弾きはじめる。
「一度始まっちゃうともう大丈夫でしょう」
と言う方もいらしたが、そういう物ではない!!最後の最後まで気の抜けない曲である。思わず最後のテーマで笑みがもれるのは「ああ!!ここまで来た・・」という心からの喜びに他ならない。

2日目は「もう一日やったのだから・・」と疲れる手を休めることに専念して練習もしなかった。しかしながら本番で弾きだしてみるとやはり「やばい!!」結局最後までその辛さは残り、また風邪の為耳も聞こえず?「あれ?ヴァイオリン鳴らないなあ〜」と思ったところでもう遅い。半分ぐらいの聴覚も「ま、いいや!ベートーベンも聞こえなくて頭の中で書いたのだから」と。(この日テレビじゃなくて良かった!、鼻水でてて・・終演後、花がでます・・・という舞台の袖の声がどうしても鼻がでてます、に聞こえた?!」

弟子の舞台を見ていて心から楽しめたのもこんな自らの経験を彼らが必死の思いで追っかけているから。言葉にはできない時の凝縮を共有するから。

ここでは先生でも生徒でもない。同志だ。戦友だ!!

こうやって私も江藤先生に教わった。

教師業に「はまる」至福の一瞬だった。

2010年2月2日(故ハイフェッツの誕生日)
ページトップへ戻る ▲