経済的に弾く?

30年ほど前、妹のレッスンを訪ねてザルツブルグで初めてヴェーグ先生にあった。その時彼は、「エコノミックに弾かないとね!」とおっしゃって確かシューベルトのファンタジーのヴァリエーションを生徒の前でデモンストレーションしていた。
とても難しいところなのだが、彼はいとも簡単に右手の指や手首をよく油をとおしたちょうつがいのように使い、また左手との「コンビネーション」「弦と弓の毛のコンタクト」と言いながら小さな弓使いで弾いていた。

帰ってきて試してみたが、なかなかそんな簡単にいくものではない。

「エコノミックに弾け」
とは「全力投球」で常に「芯のある重めの音」を教え込まれた私にとっては、なにやら「そんな不届きな!」のような気持ちになったものだ。ヨーロッパのなんというか、老獪さを見たような気がした。

年を経て、
だんだん筋肉の力も弱くなる。

エコノミックに・・とは要するに
「いかにうまく自分の体を使って弾くか?」ということに他ならない。
把握できればできるほど遠くを見て、大きなフレーズで考えられることができる。
それこそ「入れる、抜く」のタイミングもわかってくる。

年を経て

この音楽は「こう弾きたい」
という欲求はますます強くなってくる。

若い頃わからなかった節回し、とても恥ずかしくてそこまでは・・・と思っていた表現も今ではかえって大胆にできるようになる。

問題はそれを「いかに音にできるか」だ。

バレリーナの苦悩はそういう芸術的境地に近づく頃にはもう体がいうこと効かなくて・・とテレビでかつてのプリマたちが話していたのを見たことがある。

昨今ヴァイオリンのソリストを40歳過ぎて続けるのは「ほとんど奇跡だ!」と往年の名ヴァイオリニストたちのヴィデオ番組でパールマンが言っていた。

確かに市場には年々若返る才能・・・5年たつと消える才能で満ちあふれている。すこおしその辺をかじった私もその怒濤のような流れと多大なるストレス・・またつまらない孤独生活・・・を味わってみて、つくづく「ソリストとして生き延びる大変さ」は身をもって体験した。

しかしながらまたまた「往年の名演奏家」たちは40過ぎて50過ぎて、60過ぎて・・・80歳になってもチャイコフスキーを弾いているではないか!

近日来日したギトリスは、その中の一人だ。知人の医者の話では、「首が回らない、肩が痛くて・・」という彼の元にあらゆる薬を持って駆けつけた。しかし彼は迷ったあげく「う〜ん、もし副作用で指がまわらなくなったり頭がぼおっとしたら困るから弾き方を変えてやってみる」と深夜、鏡の前で練習を始めたという。
「その後ろ姿は神がかっていた・・」とその友人はシャッターを押したものだ。

「だましだまし・・」でもこだわりを持ってること・・・
自分のことにて後悔せず・・と武蔵は言ったけれど、ねばりとあきらめ・・が肝心。
ちなみに「あきらめ」とは「「明らかにする」こと!

昨日、1年半前に録音したラロのコンチェルトの編集をやっと聞いた。本当にこの年で3曲の超絶技巧的コンチェルトに挑戦するのは大変だった。出来はそれこそ「我が事にて・・」だけれど嬉しかった! 練習時の葛藤、ニースのホテル、オケのみんな・・いろいろ思い出しながら、おなかの上にコンピューター置いて聞いていたらそのあたたかさ?のおかげか、くたびれきっていたおなかがぐうぐうなり出した。

明日は「仮装大会」きゃあきゃあ言いながら子供たちがいろいろ試し着して騒いでる。「これ、ママ弾いてるの?たんたんた〜ん、こういうママ好きよ」と娘がおでこにチュ!

ラロもバッハも作曲家の名前はろくに知らないが、私が弾く旋律はよく覚えて一緒に口ずさんでいる。

至福の時。感謝。

2009年10月末 ブリュッセル
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