興味

4年目になるクルシュベルの講習会でいろいろな生徒に出会った。さまざまな悩みを抱えている。技術的なこと、曲の見方から始まって、個人的なことやこれからの生き方について・・世間での認められ方について・・・
「なぜヴァイオリンを弾くのか?」
ある人は「自分のため」だという。[聴衆が自分より多くを感じているとは思えない]「それはあんたのおごりだ」と私。
その同じ子が「コンクールに通るということはそれで一応自分の考え方。弾き方は正しいのだという世間的評価に通じる」という。「このレベルでは一次予選は通過しますか」「・・・」
コンクールというレベル以外にも音楽を認めてもらう、いや自ら音楽を探す手段がどんなにたくさんあることだろうか!それでも「まず弾けないとダメ」なのは、全くどんな年になっても同じだ。これがこの職業のキツイとこ!

そういえばこの間友達の子供が「大学卒業」というので、その式に参列した。こちらでは学校に入るのは簡単だが出るのは至難の業。結果「デイプロマ」卒業証書を手にするということは即「仕事がある」ことにつながる場合が多い。彼女も「ロゴペデイー」というハンデイーをもった子供の教育・・・という職種の卒業証書を手にしたとたん、3か所からお呼びがかかっていた。
生涯「食いっぱぐれる」ことはなさそうだ。

音楽界はそうはいかない。経済危機にもまして数年まえから「就職状況」は目に見えて難しくなっている。オーケストラのメンバーの席が空くとそこに応募する人は時に200人にも及ぶ。それもヴァイオリンの合奏の部分での話だ。ソリストなどは夢のまた夢。また数年続いても20年食べていける人はほとんどいない・・・

経済的に恵まれ、教育に恵まれ育った子供たちは、許容範囲も大きく道も開けやすいだろう。しかしながら彼、彼女たちの今現在抱えている不安は、変わらない。逆に逆境といわれる環境・・・そのなかで必死に自分を守ろうとする姿もある・・・

いずれにしても「世に出にくい」または「出ても大変」な職業を選んだこと。それにも増して「音楽が素晴らしい」ことを伝えたい。私にできることは彼らのヴァイオリンをとおして少しでも心の灯をともすことだけだ。もしそれができるのなら・・・

「ピタゴラスの音律」という話を耳にした。純正律でもなく平均律でもない「ラ」の音を基準にしてそれからプラス2、プラス13、またはマイナスいくつ・・とそれぞれ決まっている少々高い低い音程を当てはめていくととても聞いていて心地よい音程になる・・という。ヴァイオリニストのグリュミオーは平均律と純正律とこのピタゴラスを使いこなしたという話を聞いてまだまだ自分は甘いなあ、と痛感した。

6月に有田さんの東京クラシックプイレーヤーズ・でバロック弦によるメンデルスゾーンのコンチェルトを弾かせてもらった。この「バロック弦」の弾きづらさもさることながら、その「音程」感覚のちがい・・・試行錯誤は入口に立っただけでもなんだか「面白そう」な世界だった。

実際本番では弦が狂ってしまう心配もあって、時間のない間に調弦をするために弓を置く場所が欲しくて、譜面台を立てて演奏した。が幸運なことに空調が効いているコンサート会場では弦はほとんど狂わず!高音も無事鳴って、日頃の「とかく急ぎがちな」演奏とは変わった「時間のある音の出し方」をすることになった。
私としては新しい境地を開発した思いだった。

なにかきっかけがあると見る目がまったく違ってくる。それだけでも「半分ですよ」とは、よく江藤先生に言われた言葉だが、その方向性を見出すこと、その時わからなくても「楽観的に」追求し続けること、があらゆる年代において大切だ・・。これは、なにも学ぶ側だけの権利ではなく、教える側の「気づき」にも存在する。そうなるとみんな共通の興味を持つ「仲間」だ。昔江藤先生に口を酸っぱくして教えてもらったベートーベンのコンチェルトを今度は「孫弟子」に教える・・本当に魂は生きている。

才能とは「いかにその興味をもち続けられるか」かもしれない・・・
年の初めに書いた年頭の一文字「練」が一考ならぬもう少し考えてみようかな・・と拡がりを見せることを望みつつ!その興味を持ち続けられる体力と心力を持っていたいと思う。

2009年8月 ブリュッセルにて
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