運転

車を運転し始めたのは、そんなに遠い昔でもない。
とはいうものの1989年にこのアパートに移り住んで以来・・・だから、かれこれ20年近くにはなる。
車を転がす・・・というのは、私にとっては「画期的」な出来事で、だいたい「運転免許」を取れるようになるまでもかなりの「いきさつ」があった。

夏の間マルボロフェステイヴァルに毎年出かけていたころ、なんといっても車がないと不便。「どうしてあんな簡単な事のように見えるものが私にはできないのだろう?」

冬にゼルキンの「若者たちのためのインステテユート」に滞在した時も、わざわざその当時ザルツブルグに住む妹にアメリカ・ヴァーモント州まで来てもらった。運転してもらうために!
彼女が帰ってからは、ゼルキン自ら送ってくれたりもした。
「これではいくらなんでも!なんで私が運転できないの?」と、そこでまず「講習」を受けた。が、筆記試験で落ちた。「exhaust」の意味がよく分からなかった。ゼルキンには「これは知能とは全く関係ありませんよ」となぐさめられた・・・

数年後、ポカーンと時間が空いた6月、演奏会の合間を縫って、ロンドンの友人宅からまた「免許」を目指した。今度は筆記は通ったもの、実技でほとんどパニックだった!
「what are you doing?」と検査官に言われたのも私ぐらいだろう・・・
あの年は音楽会場で、チケットが見つからず、違う座席に座っていた私は、始まる直前「ロイヤルアルバートホール」の満員の聴衆の中、追い出され、なんともみじめな思いもした。
「I hope you find your way...」とかなんとかロッケンハウスで友達になった、ウィーンフィルの人に言われたことを覚えている。イヤなことは重なるのだ。

89年、ついに自分のアパートを手に入れた!
しかしブリュッセルの交通事情から言っても、また「水」を含む重たいものの買い物事情から言っても車は不可欠になった。だいたい本末転倒・・・ということなのだ。「なぜ運転もできないのに、そういう場所を選んだのか?」

そしてその年の冬、ついに3週間だか1か月だかの「休み」をとって日産自動車教習所に通った。もう「片手間」ではダメなこと。英語ではダメなこと・・がわかっていたからだ。

3回目の正直は、さすがに「気合」が入り、メカニック、筆記、そして実技と「運転」に集中。最後には最短距離でとれる「パーフェクトプライス」というものまで頂いた!女の子はひとりだったから、どんなに私が鼻が高かったかは、想像に値するというものだ。

さて、ブリュッセルに戻り、友達が見繕ってくれた [ シトロエン deux chevaux ] かっこいいえんじ色と黒のツートンカラーの中古車、チャールストンという車に乗った。なんといってもかっこいい!ギアーチェンジもなんのその。「ほろ」は全開すると、まるで自転車に乗ってるような身軽さ!(こわいけど!)トンネルの中の臨場感なんて、すごいものがある。

・・・となるまでには、少し時間がかかった・・・
なにしろ「初めて」の運転、どんなに緊張していたかは「手に汗をにぎる」どころの騒ぎではなかった。もともと不器用な私は、しかし、外から見ると逆に「なんでも楽にできる」ように見えるらしい・・・つい自分もその気になると、とんでもない目に合うことがある。

「なんだか手が痛いなあ・・・」と、音楽会を初めて「キャンセル」なぞした。
医者に「なんか最近新しく始めたものありませんか?」と言われ、特別たくさん練習した覚えもない私は、「あ!運転だ!」と思い当った。
後にも先にも「腱鞘炎です」と言われたのはこの時だけだ!よっぽどハンドルを握りしめて運転していたのだろう。首もかちかちだったに違いない!

さて、その後ヨーロッパに帰ってくるたびに、車の生活になった。車もチャールストンからやはり「腱鞘炎」にはなっていられないので、ハンドル操作の軽いスバルのセダンにかわり、そのうち子供たちの小さい頃は面白がってジープに乗り!今また、静かなサーブのセダンに乗っている。

いい気分で車を「転がす」までにはなったが、逆に「慢心」からくる「道に迷った!!!」は、どうしようもない。「なんとかなるさ」といつも走り出してから考え、行き当たりばったり。一人の時、時間がある時はそれでいい。しかしそうではないときもある。

そしてそれは全く「思いがけず」やってくる・・・

一度目はエリザベートコンクール審査員のとき。また例によってかっこつけて「いいですよ、どうぞお乗りください」と審査員3人も乗せて「王宮」を目指した。道はまっすぐ。迷うことなどありえない。が、なぜかどこかで右寄りの道を入ってしまったら、もうわからなくなった!それでも「何とかなる」とは思うものの、15分たってももっと知らないところに出る・・・だんだんパニック。時間は迫る。なにしろ王様とのデイナーなのだ!遅れる…などということがあってはどうする?それも自分ひとりではない。

やっと王宮のまわりにたどりつくが、そのただただ広い敷地内に入るにはまた全く反対方向から。一方通行、行き止まり・・・喉はからから・・足が震える・・・一緒に乗っている人たちもブリュッセルには住んでいない。ガソリンスタンドで聞くこと2回。「あっちかなあ??」なんとも曖昧な答えばかりだ。「王宮の入口」など私も含めて、一般庶民はついぞ入ったことがないので当たり前だ。
どうやって行ったのか覚えてない。「着いた・・・」と思って階段を上がると、まさにデイナーの着席直前・・・私の席を探すと、
なんと、アルベール国王の隣・・・
「Madame, Bonsoir. Très heureux de passer cette soirée en votre companie.」
(こんにちは、マダム、あなたと御一緒できてうれしいです)
「ああ・・間に合ってよかった・・・」

そして今日。朝寒風のなか息子のサッカーの試合に出かけた。前半が終わって配る「オレンジ」はちょうどなくて切らなかったけど、ちょっと遠くの試合場まで選手たち数人を「連れて行ってあげる」と出かけたのはよいものの、「ああ・・・だいたいあそこね、あとついていくから!」と慣れたような口をきいて運転を始めて数分後、連なって走っていたはずの前方車は信号つっきって行ってしまう。後方車は曲がらずまっすぐ行ってしまった!!
「私どうしよう?」
電話をかけてナビを入れて・・・でもなにやらうまくいかず、高速道路を下りてナビの指示通りに行くと、そこはガタガタと泥道を行くおだやかな丘の上。着いたところは [ equitation ] 馬の調教場。サッカー場などあるものではない!
まったく方向音痴の私は、なぜもっときちんと住所を把握してなかったのか?

試合開始まであと10分しかない・・・選手3人欠けることになる・・・
こうなるとフランス語も何も頭に入らない。電話でいくら説明されても分からない。だいたい自分がいまどこにいるのかはっきりしないのだから。

「どうしよう。ママ泣きたいよ・・」(泣きたいのは子供たちだろうに!)

一人の子が冷静に[ Genval ,rur de tilleule ] ともう一度ナビに入れなおす。祈るような気持ちで道を曲がりしばらく行くと、

「あった!!」

心臓が止まるかと思った。「日本 の地図でも入れたのか?おまえ?」とコーチにからかわれ・・・「私のこと置いてったの、あんたでしょうに!」と内心怒り・・・でも仕方がない。このぐらいできなきゃ「母親の資格」もないのでしょう。
「ま、この世の終わりでもないし!」と一人の親に言われたが
・・・私にとっては十分「世の終わり」だったよ・・・

いやはや、自らの不器用さと融通の利かなさ・・・には、まだまだつきあって行かなければいけないのです・・・・・

2008年11月 ブリュッセルにて
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