勉強の仕方

今回は8月からほとんどノンストップで旅行していたので、久々に我が家に長くいる。
子供たちの「勉強」なぞみて、その大変さとできなさ加減に気がついた。だいぶ時間がかかりそうな感じだが、修復不可能ではないだろう。
体力的には置いていっても大丈夫になったものの、まだまだ「後押し」がなければ成績も低下する。

息子が行っている中学では「わからない子」のために放課後週2回補習してくれる、生徒9人に先生2−3人。わからないところを、あるいは勉強の仕方を教えるらしい。でも「いつも」というわけにはいかず、全期の中で2回だけ?今やれば12月まで、後はあと1回権利がある・・・らしい。「補習があるからいいや!」とならないようあくまで自分で勉強する方法を見つける手助けを、という訳だ。

彼は「居残り」に不安を感じながらも、終わってみると晴れ晴れとした顔をして帰ってきた。なるほど、「わかる」「できる」ということがこんなに大切だったのか・・・と思う。
「ママ。ママ・・:」と甘えられることを快感としていた私も甘かったし、かわいそうなことをした・・・親がしてあげられることのひとつは「子供の能力を引き出す」ことなのだから。これも「不在」のつけ?にしては、ちと大きいか。

異国・・・ということ、言葉がわからない・・ということ、忙しい・・ということ。いろいろあって「ベストな教育」など与えられない。特に「先を読んで良い先生を捜す」ことは難しい。すべて子供たちが偶然見つけてきた・・・ような感覚だ。
先日プールに泳ぎを見に行ったら娘がぽつんと「私も5歳ぐらいから水泳やってたらもっと早く泳げたかも・・」といわれた。はっとした。「音楽」「日本語」までは考えたものの「水泳の英才教育」は頭になかった。振り返れば、彼女が3歳ぐらいの時、世田谷の50メートルプールをほとんど沈みそうになりながらも泳ぎきってきた彼女の姿こそ「才能」だったのだ。今も同じような感覚で「バタフライ」をやっている。

この間、東京の夜9時半すぎ、10時頃に、大勢の子供たちが塾からでてくるところにでくわした。ほとんどの子供が眼鏡をかけ、「今度の成績どうだった?」と話をしている。比較的からだは大きいので中学ぐらいだろうと思っていたら、バスに乗り込んで「子供一人」と、切符代を払っている。いやはや、この夜遅くまでご苦労様なことだと思ってしまった。果たして彼らの人生、ずーっとこのまま「通学」「塾」「通勤」の生活で「息切れ」しないのだろうか?

ブリュッセルの大学で、今年9月から不在が多い自分の事を考え「8月中頃からレッスンしますよお!」と生徒たちにメールを送ってみた。結局やってきたのは日本人ひとり!「まったく!せっかく先生自らが「やってあげます」と言っているのに、この態度はなに?
と半ば怒って友達に話すと、「それは彼らが正しい」ときた!「なぜ?」「ヨーロッパでは夏はバカンス。学生時代は特にね。勉強はしない」「・・・」「仕事をしてるのもたくさんいるから」

しかしよく見ていると、それで決して彼らのヴァイオリンが特別後退しているわけではなく、2ヶ月間ひとりでこつこつやってくるもの、10月頃からめきめき力を発揮するもの、5月の試験でうまくなる人、とでてくるのだ。まったく先生の力ではない。「はじめにやる気あり」なのだ。バカンス(空っぽ)の意味を体で知っている彼ら・・・空になった器には何でも入れられる。

30歳頃になって、特に男の子はその頃に初めて固まってくる。17歳頃「オトコってさ。30過ぎるとずるくなるよねえ」などという会話をしたことを覚えている。それも今度は年下から見たひとつの「見方」だったのだろう。思えば長い「だらだら時間」なのだが、よく考えれば人生長い、最後まで「興味を持って生きられる姿勢」こそ、若さというものだと思うようになってきた

2008年11月6日 ブリュッセルにて
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