メシアンの2つの音

今年は、メシアン生誕100年。おかげで!というのもおかしいのだが、「世の終わりの為の四重奏曲」を弾く機会に恵まれた。
素晴らしい共演者たち、野平一郎さんのピアノ、チャールズ・ナイデイックのクラリネット。山形での本番では、大島文子さん。そしてチェロは辻本玲さんと軽井沢では工藤すみれさん。

それぞれに「想い」を込めた演奏となった。山形での「垂れ幕」つき「解説つき」物語風。文化会館では谷川俊太郎さんが「詩」を作ってくださった。軽井沢では最後に、聖パウロ教会の小さな礼拝堂での演奏となった。移りゆく日がステンドグラスを通して礼拝堂にはいってくる。刻一刻と変わりゆく、その日の光、影・・・そして私のソロである8番目の曲、「永遠への・・」が始まる。

「シ」と「ド」とまったく単純なこの2音から始まる。この楽章に来るまでに、葛藤があり、地獄の絶望があり、鳥の声が聞こえ、祈りがささげられ・・・天使の最後のお告げ・・・「この世は終わる」という声が聞こえる。そして、ありとあらゆる邪気を振り払うように、「シ」と「ド」と始まる。

まるで、私たちの生活・・いや私の生活のようだ!
日本とブリュッセルを行ったり来たりして、もう回数券買うほど!?飛行機に乗って・・そのたんびに「時差」でまいり、また復活。「習慣」になれ、また出かけてゆく・・・
その中にある「空」。
よく「空っぽ。空っぽ」という言葉を使ってきたが、物事が成就する前に姿を消す・・なんていうとかっこいいけど、要するに場所を移動する。旅芸人には当たり前のこと。
「主婦」から逃げ出すいいチャンス!
「ソリスト」から解放される「家族のぬくもり」。
実際あるのはポカーンとした時間。ホテルで一人でいるのと、家でコンピューターの前で一人でいるのと大して変わりはない。
ともすれば、雑事に追われ、それをこなして行くだけの日々。所変わっても誰もが同じ思いの「毎日の生活」

そこで「止める」。 久々にこの字を書いた。よく年ごとに、あるいは練習をしていて、一字書く。または思いついたことペタペタとそこらじゅうに貼りまくる。おかげで我が家はどこでも「ポストイット」の洪水だ。子供たちは「友達が来ると本当に恥ずかしい」という。でもやめられない。時が来るとすべてはがして捨てる。

いつもは「待つ」とか「観る」とか「現れる」とか・・

「止める」はメシアンの2つの音。あの2つが本当にゆっくりときれいに、レガートで、ヴィブラートも自分が思うようにかかり、弓もふるえず、呼吸も静かだとあとは音楽がおのずからつむぎだしてくれる。一音ずつの発展、音間が飛ぶことによる感情の流出ができる。しかし最初の「シ」と「ド」だけは何とか自分で止めて作らなければ始まらない。覚悟と体力と仕込みがいる。この曲を弾こうと思ったら、よっぽど覚悟して、人生、生きなければいけない。そうでないと、曲に見透かされる。負けてしまう。

そんな「真剣勝負」の2音。
それをもっとつきつめると「沈黙、その深さに測りあえる音」という武満さんの言葉になる。いつも作曲家はそれを実践しているのだから、すごいものだ。

軽井沢の聖パウロ教会の録音が終わった後、三善先生のお宅にお邪魔した。奥様が先日の音楽会に来てくださって、「ぜひほんのちょっとでいいから先生にお目にかかりたい!」と私がおしかけてしまった!

森の中のおうちは、ストーブがたかれていて、先生が窓際に座っていらした。
何年かぶりにお会いする。なんだか「心の我が家」に帰ってきたように嬉しかった。
「ボーブクリコがなくて・・・」と奥様。2度ほどブリュッセルの自宅にお招きして、事もあろうに私が作った料理を食べていただいた。その時のシャンペンが「ボーブクリコ」だった。三善先生の書かれた料理の本「男の料理学校」も熟読!というより、書かれている料理がおいしそうで!!
その話をすると、「おなか壊さないでね」と言われたものだ。その翌年いただいた先生からの年賀状に私がお出ししたメニューを覚えていて書いてあったのには
「参りました!」

今回も、地ビールと付け合わせ[興奮していた私は箸をつけずにきてしまった!今でも後悔している・・・おいしかっただろうに・・・]をごちそうになり、なんだか一方的に私が話をしてしまった・・・メシアンの演奏のあと、それに先生にお会いする嬉しさ!

思いがけない再会の帰りは生ハムとビールの「お土産」までいただいて・・・

メシアンの2つの音・・・が、こんなに嬉しい「御褒美」になった。

今年の夏の、思い出またひとつ!

2008年9月 ブリュッセルにて
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