情報社会
なにもITビジネスに限ったことではない。
音楽の社会にもインターネットというものが普及していつでもどこでも、また、なん時の映像でも今現在聞いたり見たりすることができるようになった。
50年前の名演奏と今のCDを比べるともうそれは、必然的に、昔のすごさに圧倒される。
あの時代、本当に「才能のある」音楽家たちが、それこそ、一生をかけ、曲を知りつくし、何十回と弾いた中の録音がある。ゼルキン・ブッシュのシューベルトのファンタジー、ベートーベンのソナタ・・
1984年ごろ、冬にゼルキンが持っている「若い音楽家たちのためのインステテイテユート」に滞在したことがある。といっても私たちだけ。車の運転ができなかった私のために当時、アメリカ・ヴァーモント州ブラッテルボロまで妹がわざわざやってきてくれた。彼女は当時ザルツブルグに留学していた。
そして毎晩ルドルフ・ゼルキンとベートーベンのソナタ。ブラームスの1番のソナタ…などを弾く・・・という至福の時を過ごしたのだ。
その時「ああ、あのレコードで聴くブッシュ・ゼルキン・の音だあ!!」と私は心から感動した。
彼は私と、練習しているだけなのに、全エネルギーを注ぎ、またテンポの設定について議論して・・・ベートーベンのスフォルザンドについて「ある本によると・・」と控えめにサジェスチョンをする。
ブラームスのソナタは私自身当時良く弾いていたもので、そうなると「よく演奏してる曲でしょう?これ」と言われた。決してほめ言葉ではない。むしろ「いっぱいついた、いらないものを早く取りなさい」と言われるのと同然なのだ。
と、こんな経験ができたことがまず、すごい。よく練習が終わるとイレーヌ婦人手作りの料理をごちそうになり、また私が探してきたアルバムを見ていろいろ昔のことを語ってくれたものだ。もう少し自分の英語ができていたらいよかったのに!と悔やまれる。
「ベートーベンのソナタはこの録音をとるまで、50回は弾いたかなあ」
よく車の中で、今から弾く曲を反芻していた。「眠ってらっしゃるのかなあ」と思うと27分ぐらいたってぱっと目を開き、時計を見て「ああ、また少し早かった・・・」とおっしゃる。本当に「弾くテンポ」で曲を反芻する・・というのは並大抵のことではない。それだけきちんとテンポ。やるべきこと。そしてもちろん感情的な物も含めた「音楽」を頭の中で鳴らせる事ができる、という事なのだ。
この頃よく耳にする1960年。70年代のベルリンフィルの音。「まあどこのオーケストラだろう?こんなに生き生きとして若い!」と、いずこの「ユーゲントオーケストラか」と思いきや、カラヤン・ベルリンフィルとくる。この間の飛行機の中で(また!)見たカラヤンのヴィデオに感銘を受けた。野球帽をかぶりオペラの歌手たちに自ら「演技」をつける姿。ベルリンのフィルハーモニーホールもザルツブルグのフェストシュピールも彼自ら設計した。
今現在すべて「分業化」してしまい、また「良いものばか取り入れよう」と自分で思っている輩は、本当にかわいそうだ。
そんな、情報をいくらたくさん仕入れたところで、よっぽどの才能がない限り、とても処理しきれるものではないからだ。
一人の人から物を学ぶ・・・芸術だけとは限らない。専門的なものならば、なんでもそうだろう。情報だけではない。もっと奥深いもの、一生の[糧]となるものを習得するのは、学ぶ方も教える方もそう簡単にはいかないものだ。歳月をかけ、本当に心を開いたときのみ、「何か」がわかるかもしれない。いや、その時はまだわからないかもしれない・・・
その「大切さ」を感じることを「才能」というのかもしれないが・・