空(カラ)の効用

空の巣、空の巣と書いていたら
「そんな言葉はもう古いよ。今は使われてないよ」と言われた。
「むしろ、使われなくなったところが怖いね」と言う人もいる。
「なぜなら子供が出て行かない、独立しない、親が、手放せないのが実情なのだから・・・」と続ける。
なるほど、そういうものか・・・
でも「空の巣」という言葉が流行ったのもついこの間10年もたたない話だろうに。その間に言葉が「死語」になるほど状況が変わったというのか?

ここブリュッセルで「子育て」をしているのは、私には都合のよいことでもある。
言葉の出来なさはさておき、学校の感じが、幼稚園も小学校も中学も、なにやら私自身の学生時代と似ている?ということは30年前の日本のような感覚なのだ。
子供たちの通う学校はカトリック系が多いせいか「額縁」がはっきりしている。
学校に文句を言う人も少ないし、説明会で、質疑応答は活発にあれども、学校側もそう肩ひじ張らずに「先生」の威厳を保てている。結構キビシイけれど子供たちはのびのびしている様子が見受けられる。

コンセルヴァトリーで教えていても学生と付き合う5年のあいだに親と顔を合わすことはほとんどない。卒業試験のとき「聴きにくる」ぐらいだ。

我が家の「空の巣」状態はますますさかんで、息子などはとにかく友達と遊ぶことが人生第一の目的。学校から帰り、なにやらおやつを食べるとさっさと宿題を済ませ「じゃあいってきまーす!」と出かけてしまう。というと「ずいぶんできた子ねえ・・」となるかもしれない!
しかし、この間など帰ってきてからまた「ねえ、友達のうちでごはん食べてもいい?8時半に迎えに来て」と言われ「ねえ、そんなにうちにいるのイヤなの?ママ何か悪いことした?」と聞いたところ、
「何言ってるの?つまんないから遊びに行くだけだよ」
と言われた。確かにもう「一緒に遊ぼう」という年でもないわと苦笑してしまった。
かといって、「汚いからきちんとしなさい」と言いまくる娘もその声がキンキンしてくる頃には何かある。案の定、夜中に空咳していて「あれ?」と思っていたら次の日捻挫して帰ってきた。
このところ、スポーツのイベントが多い5月に向けて水泳、走る、自転車とずいぶん練習が大変らしくクラブから帰ってくると、食べてすぐ「寝る」という事もある。
「少しやりすぎ?」と思っていたが案の定。
明日からまた3週間留守にする母親としてはやはり心配だ。

愉気してたら「ママのそばで勉強しよっと」と大きな机にノートを拡げる。この机は居間のまんなかにデーンとあるが、いつも誰かが何かを置いているのでお客さまが来ない限りは目いっぱい埋まっている。そこで私もヴァイオリンを弾く。
本当はこういう時こそ「もう少し」付き合ってあげれば満足して離れるものをこちらも録音まえの「待ったなし!」のパニック状態だ。

「あの・・でもママヴァイオリン弾くけど」
「じゃあ上行く。集中できないから」
このところ私も練習することが珍しく多くて!子供たちも少々辟易・・・が実感だろう。
「行かないで。ママ」と熱のある子を置いて演奏旅行に出かけなければいけなかったツラさは、だいぶなくなったものの、何時のときでも「重なる」難しさ。
誰でも働いている母親ならば経験したことのあるものだろう。

「切る」
練習の打ち切り、親子の距離。
ちょうど読んでいた本(塩野七生。ルネッサンスとは何だったのか)の中に「なぜレオナルド・ダ・ヴィンチが未完成作が多いのか」という話があった。

1) 自分の技量が描きたいものに対して不十分である
2) 完成した姿が見えてしまった・・・面白味がなくなる
ここから彼女の「ルネッサンスとは、創造したい人たち、知りたい、解りたい、見たいという人たちの集まり」という話に展開してゆくのだが、「創造」する事にはいかにこの「打ち切り」が大切かという点においては、私もルネッサンス人に大賛成!

「ああ・・もうちょっと・・・」
「少なきは多きにまさる」
これはいわば「時間」という生きているものの特権を駆使した唯一の方法ではないだろうか・・・
体のことも心のことも、また勉強、芸術、なんでもそうだ。
時が流れてゆくから「成長する」
その「合間」に。

空っぽ・・・になることが充実の裏返しぐらい重要だということだ。
するとまた新しい展望が開ける。あるいは、知らない間に熟す・・・といえばその知恵を駆使して生まれたものにワインがあるではないか。チーズ。納豆。ポトフ。「ぐつぐつ、ことこと」煮ておいしくなるもの。
ああ、おなか空いてきた!
と台所に立つのも楽しみな「自由時間」だ。

2008年3月末 ブリュッセルにて
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