父性と母性

春休みの土曜日、久しぶりに、パパのオーケストラを聴きに行った。子供たちも一緒。彼らの友達もみな「おめかし」して。
もう夜、閉まりかけてる花屋さんで、3つのブーケを作ってもらう。ひとつはきょうのソリスト・エスター・ヨーのため。彼女はまだ13歳だが、もう何回もオーケストラと共演している。
あとの2つは指揮者とオーケストラのために。

子どもたちが小さかった頃は「楽屋専門」で、私の音楽会についてきた。現在は学校が忙しくて(親も忙しくて!)なかなかコンサートには連れて行ってない。サッカー場、マラソン会場・・・の方がよっぽど回数は多い。正面玄関からコンサートホールに入るのなど、久しぶり?
というわけで、親子ともども、なんだかわくわく!3つの花束抱えて、時間よりも早く着く。駐車も問題なし。
リハーサルと本番の間、がらーんとしたホールで、楽器の間を歩きまわり、パパのまねをして指揮台にあがる子供たち。その写真を撮る私。

音楽会は、成功。エスターも初めての曲ながら健闘。
パパのオーケストラも以前聴いた時よりもだいぶ「軽く」なっていた。モーツアルトのヴァイオリンコンチェルトだったが、これは、「軽さ」がなくてはダメ。そのあと伴奏も難しいヴィユータンのコンチェルト。そしてメンデルスゾーンのシンフォニーと休みなしの1時間ちょっと。「ずいぶん聴いたなあ…」という感じがする。

終わるとレセプション。子供たちはパパに「ブラヴォー」と言うともうどこかへ消えてしまった!私もちょっとおしゃべりして・・・
「あれ?どこいった?」と探す心配ももうないようだ。かれらはちゃっかり、友達でもあるエスターの後についてレセプション会場にいるではないか!

なかばあきれ、春休み中で「明日学校でしょ」という台詞も、必要ない母親としては、「ああ、私の役目も終わったなあ・・・」と実感したものだ。
「母性」という抱え込み。いつも、くっついている状態は、もう彼らには必要ないらしい。
「外」の社会、これからは「父性」世の中のしくみ。なりたち。営業。そういったことに興味がある。

「手取り足取り」よりも、「ほら、やってごらん」という時期。
「かわいい子には旅をさせろ」
「ライオンはわが子を谷に突き落とす」
いやはや、いろいろ言い方はあるが、これからは、そういう時なのかもしれない。

1週間の旅から帰る。こちらとしては自ら「長旅御苦労さま」というところだが、空港にはパパひとり迎えに来てくれた。
「子供たちは?」と聞くと「一人は勉強。一人は友達の家」という。
ちょっと淋しい。
家に着くと「おかえりなさい」と嬉しそうな二人だが本当の地が出てくるまでには時間がかかる。
いなかった分成長した彼らの姿・・・台所は食べ終わったあと、キレイに片付けられ、残った料理はきちんとパックにされ!
これは以前はなかったことだ。
ともすればこちらが怒られる。
「ママ、寝る前にちゃんと片付けなさい」
と、どうしても見つからない人の電話番号探しで床中にちらばった名刺の様を見て言われてしまった・・・
「片付けなさい!」
と言い続けた効果があったのか、こちらが食べてる最中から「片付けられる」
これではおいしさも半減だ!

「きちんとする」ことと
「人の心のひだを読む」
事は相反することがある。
父性と母性のようだ。
とりこんでどんなことでも守りたい「母性」
切り捨てる「父性」

まだまだ「伝えるもの」があると思うのは私のひとときの「うぬぼれ」かもしれない。が「もうすこし」このうぬぼれにつきあっていたい・・と思うこの頃でもある。

2008年4月 ブリュッセルにて
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