空の巣症候群

自分自身がそんな思いをするとは思っていなかった。というより、以前よりデビューと引退を繰り返しているような生活をしていて、その時々に「ガラーン」とした心の穴は感じていたからだ。

レッスンを終えて、疲れて・・・といっても弾いた疲れとは違うものを感じ、どちらかといえば発散したい…気持ちで家に帰る。と早速
「ママ、エヴァルドのうちでごはん食べていい?」
「エー!せっかく帰ってきたのに」
「でも遊びたいから、あとで夜迎えにきて」
「宿題終わったの?」
「うん」
「じゃあ・・・まあいいけど」

「ママ、友達と犬散歩させてくる、1時間ぐらいね」
「気をつけてね、この頃春で変なのいるし・・・」

パパのオーケストラ・シャルルマーニの定期演奏会。
「行こうかな・・」
「来なくていい、来ると上がるから」
「・・・」

いいんだか悪いんだか、みんなそれぞれよく独立してらっしゃること!
結局一番「出歩いてるはず」の私が一番ひとり・・・
昨年とったライブCDの録音、編集を聞く。いつも「あれ?こんなだったかな」と失望する。要するにそれが私の実力なのだ。「あそこ、こうやれば!ああ・・なんでこんな弾き方してるの?」「ライブ」でとってはいるものの、このようにCDになってみると「キチンとCDを作るように」作ったほうが、やはりよかったかなあ・・・と思ってしまう。ライブの熱気・・・とはいうけれど、実際聞いてしまうのは「あらさがし」だからだ。

それでも作品に対する「愛情」「尊敬」があれば嬉しい。私の未熟な分「名曲」がカヴァーしてくれますよう・・・

昨年は長年つけていた「肩あて」を取った。もともと固い高いものをつけていたわけではなく、ここ30年ぐらい「お蒲団」もだいぶぺちゃんこになった・・・ものを使っていた。取る事によって、音の質、左手のポジションチェンジ(シフト)の仕方がやはり変わっている。なるべく体にフィットさせたい。細かいところは以前よりもクリアに聞こえる。その分左手でヴィオリンを持つ要素が増える。「負担」が増える・・・かもしれない。
が不思議なことに、その分敏感になったのは左手のほうだ。
右手はまだまだ、「使いきれていない」かもしれない。
「楽に弾く」ことを目的とする教え方もある。
ではなぜ「楽に弾きたいか」といえば、「もっと先の何かを求める」からだ。その「目的」なくして楽をしようとは自らの限界をつくってしまっているに他ならない。
肩あてをとって自由になった分、音の変化がつけやすくなった。最初の演奏会はちょっと「怖かった」けれど、共演者も「なんか自由になったんじゃない?表現が」と言ってくれた。ジャンーマルクだ。

彼は彼で「もうリサイタルでもコンチェルトでも譜面を見て弾くことにした」という。ゆくゆく考えてそれこそいろいろ失敗もしながら・・・「これで音楽に没頭できる」という。

かたやエルバシャは御存じのようにベートーベンのヴァイオリンソナタも「暗譜」で弾く。別に私にもと強制されたわけではないが、「そのほうが音楽に没頭できる」というので、試しにやってみた。コンチェルトを暗譜で弾くのとはちがう「怖さ」があった。しかし、通常は何回練習しても合わせてもうまく一緒に弾けないようなところも一発で合う。おもしろいぐらいに「気配」で弾く。これもまた「つきあって良かった」経験のひとつである。

空の巣…と思ってるうちにどんどん音楽がしみ込んできて・・・それどころではないわ!というところだ。

2008年3月 ブリュッセルにて
ページトップへ戻る ▲