空想力
今日学校でバッハの「シャコンヌ」を教えていた時のこと。
第3部は、「人生の3幕目、あきらめと回想と、しばしの情熱と・・」
「60歳ぐらいになった自分を想像してごらん」
彼未だ22歳、「ははは!」と笑いながらも、なんだかしんみりと弾いてきた。
で、ふと「60」という言葉を自分で口にしたとき「ああ、もう遠くないんだなあ・・・」と思ったものだ。
22歳からの60歳の空想は、かなり「演技」を持って行われる。逆にそうだからこそ、音にでる。
私があと10年の「近い未来」を想像してもあまり、力はない。なぜなら「距離感」が違うから。
そのかわり、「子ども時代」「青春時代」には空想力たくましく、対処できる。周りにそういう人がいることも楽しい。
子どもたちを見ていると、自分の育った時期、出来事とオーバーラップするから、ますます感情移入はげしく、つい「親」であることを忘れがちだ。
若い時はひたすら、「老境」の作品にあこがれた。ブラームスのインテルメッツオ。ベート−ベン後期のカルテット。シューベルトの「遺作」などを聞くと人生の「すべて」が入っているようで、わくわくした。
この頃、それだけでもないと思い始めたが・・・
人生・・・という大がかりな言葉はあまり使いたくないが、生きているその時々に「花」がある。若い時はそれこそ、無我夢中でやっていて、30年後に「ああ、あれでよかったなあ・・」と思うこともある。
しかし、「遺作」と呼ばれるシューベルトの、B-durのピアノソナタ。大学時代始めてこれを耳にした。「この世にこんない美しい曲があるのだろうか・・・」と自問した。これとブラームスの弦楽6重奏曲題1番。同じくB-durの名曲が私の青春時代を代表する、と言っても過言ではない。(こちらは比較的若い時のものだが)
ベートーベンのヴァイオリンソナタなら10番。江藤先生も7番のc-mollをやった後、10番を下さった。なんだか「大人」になったようで曲も「わからない・・・」のが楽しかった。それが、「青春の悩み」のようで、「かっこいい」と思っていたのかもしれない。
時がたち・・・・、ヴェニスではじめて「ゴンドラに乗る」という経験をした。だからもういいかな・・・というのはまったく個人的納得なのだが、「チャイコフスキーのコンチェルト」も弾くようにもなった。
意志と空想が対峙すると、空想は2倍にふくれあがる・・・と聞いたことがある。
やめよう。と思えば思うほど、おいしくなるお酒!?食べ物。
忘れよう…と思えば思うほど恋い焦がれる恋??
がんばろう・・と思うほど「ああ、休みたいなあ・・・」と思う人の心。
あまのじゃくといわれればそれまでだが、不思議なものだ。
夕方の「雲」はさあっとあかね色に染まる。そして消えてゆく。
一瞬の「美しさ」を求めて人は音を磨く。
願わくば「空想」と「意志」が一緒になって相乗効果をもたらしますよう!
「生き方」も「弾き方」も。