死者と生者の間

江藤先生が亡くなった。

だいたい死者と生きているものの間に境はあるのだろうか・・・

いつもブリュッセルというちょっと「離れた」ところで生活しているせいか、あるいはもともと私がこういう性格なのか、現在生きている人、同じ土地にいる人たちとでも疎遠になることが多い中、死んだ人との交流もさして生きてる間と変わらないといつも感じる。

現にゼルキンやヴェーグ。今でもはっきりと彼らの存在を感じる。
日々新たに彼らの音楽に新鮮さを覚える。
昨年の夏のこと、ここベルギーのあるフェステイヴァルで急遽弾くことになった。夕暮れ、演奏会前に庭園を散歩しているとその光があまりに「マルボロ」の光景に似ている。その胸を突かれるような「想い」にゼルキンの存在を感じた。いや「感じた」というような生易しいものではなく、まるで「それを感じるために私がそこにいる」のだった。
ヨーロッパの夏の夕方の何とも心地良い風のなかで、胸をしめつけられるような懐かしさを感じた。 なぜ以前に気がつかなかったのだろう。

今日も生徒にモーツアルトの4番のコンチェルトの2楽章を教えていたら江藤先生の言葉、ピアノを弾いてくださった様子。一つ一つのフレーズに込められた言葉、すべて思い出して、涙がこぼれそうになった。
「天上のような音で、弓の毛1本。細かいヴィブラート」
「テーマは小さな音で内向的。でもアダジオじゃありまんよ。バラードでもありませんよ」


ここブリュッセルのアパートにも来ていただいた。自らの手料理をそれこそ、身も縮む思いで作り給仕し、ナイフもフォークも新品。家中ピカピカに磨きあげ・・・

【江藤俊哉先生。アンジェラ先生。私。友人のフルーティスト・タンギー氏】
(1989年 ブリュッセル自宅にて)

「よいところでよかったです。これで僕も安心しました。淋しいのが何より良くないですよ」と言われた。
「車で送っていきます」というと
「あなたはモーツアルトの本番があるのだからタクシーで結構」と帰って行かれた。
そのモーツアルトの演奏のあと
「こういうのはやはり一人じゃなければ弾けないね」
とも言われた。89年のことだ。

その4年後私も若輩ながらエリザベートコンクールの審査員として招待された。江藤先生と同じ。
ちょうど主人との結婚話がでていた。先生に紹介したい・・というと
「あなたもとうとう結婚ですか・・・」と。
歴史的!なディナーのあと、ぽつりと
「僕は彼、好きですよ」

人生の節目節目で言葉をいただいた。

子供ができた。ちょうど娘が1歳のとき引き受けていた日本国際音楽コンクールの審査員として招かれた。「子供がいたらもうおしまいだね」とタクシーの中で言われた。
年末に親子3人でお宅を訪ねた。にこにこしながら「ほら、そこ危ない。頭ぶつけないように」とか言ってくださる。

息子が生まれ、ちょうど先生の70歳記念コンサートに出演。その時聞いた先生のコルンゴールドに魅せられて私も翌年挑戦した。
「一度聞いてください」
とそれが最後のレッスンとなった。
「ヴィブラートを細かくかけて弓は早く」
その指示通りにひくと澄んだよく通る、コルンゴールドらしい音がした。

そのあとインタビュー先生を囲んで…という企画で「子供が産まれても美しい音楽をし続けている」とおほめの言葉をいただいた・・・
いつも私はヴァイオリニストとしての生き方に「革命」を起こし、ハラハラしながらそれを見ていいただいていたような気がする。

今の自分はあまりに「完璧」ではなくて、それが自分だとはいうものの、先生の前では恥ずかしい限りだ。

近年はアンジェラ先生と話すことが多かった。また違う角度から江藤俊哉を知ることになった。

江藤俊哉コンクールを訪ねた数年前のこと。
加藤知子さんとちょうど隣り合わせのような形で聞いていると、一生懸命なにか「書くもの」をさがしているアンジェラ先生に、先生はそっと自分の胸ポケットからペンを取り出し「どうぞ」と差し出した。
映画のひとコマを見ているような微笑ましい風景に、胸が温かくなった。

アンジェラ先生は特に「生徒さんたちには先生の良いイメージを持ち続けてもらいたい」と晩年寝たきりの先生のお姿を生徒にはなかなか見せなかった。

彼女自信、どんな折にもきれいにしておられ、愚痴一つこぼさず、たとえそれが「使命」だとしてもどんなに孤独なことだったろうか。

忙しさのさなか、ヴァイオリンを手にした。
急に悲しさがこみ上げてきた。

言葉が伝えることは本当に限られている。ましてや、この闇に耐えうる力などない。

天上に召されて、ますます「見られている」ような気がする。ありがたいことだ。

心からご冥福をお祈りします。合掌

2008年1月22日 ブリュッセル
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