ベトナム記 アジア生命共同体
指揮者の本名徹次さんから
「ゆず子さん、いつかぜひベトナムに来てください」と言われたのが去年の3月のこと、ちょうどラロのコンチェルトを弾きたくて場所を探していた私は、自ら5月頃彼に電話した。
とんとん拍子に話が決まり、今年1月日本公演のあと、ベトナムに行くことになった。
香港、マカオ以南は以前バンコックの飛行場に数時間滞在したことがあるだけだ。アジアは初めて、ともいえる。
しかし運悪く、ここ数年来ひいたことのなかった風邪をひき、ハノイ行き夜のフライトは少々気が重い。それでも、日本からヨーロッパ便に比べれば5−6時間と半分の時間で済む。
「なんてことはないさ」とばかりに成田に送ってもらう。体調を気遣って日本の家族は心配そうだ。かまわれるのがうっとおしくて早々とゲートにむかって「じゃあね、ばいばい」と出国出口を通り過ぎたとたんにふと淋しくなった。「ひとりだ・・・」
ゲートにつくと「便は1時間半遅れます」の放送。よりによってついていない。「空港の中をうろうろすることなんて慣れてるから、へっちゃら」と啖呵をきって家族と別れたものの、カゼのだるい身体で、ずーっと座っているしかない。
そのうちまた「遅れます」の放送・・・このままだとハノイ到着は夜中の1時半ごろになる。「とにかく迎えだけは頼むね」と日本のマネージャーと、すでにハノイにいる本名さんとも連絡を取る。
機内ではこういうときに限って寝付けない。「象の背中」という役所さんの映画を見た。肺ガンで死ぬ男の人の話。風邪で自分の呼吸が浅いこともあって涙ものだ。
さてハノイ空港着。23度というとちょうど「湿気」も帯びてかえって喉には良いかと思いきや「冷房」にはまいる。そしてやっと入国、荷物と終わり、外に出る。
「名札を持って待ってますから、腕の良いドライヴァーですよ」というが誰もいない!
「名札」を持って待っている人達の前を行ったり来たり。ヴァイオリンを持っているからこちらの事は、わかりそうなものだが、誰ひとりとして近づいてこない。
せっかちな私は「えい、めんどくさい!」と怒り半分外にでた。
「タクシーで行けばいいや」
ハノイ市街までの距離も時間も知らず、「出た」はいいけれど、今度は飛行機延着のためタクシーなどもう一台もいない!
今から考えればその時もう一度中に戻り、冷静に待てばよかった。なにしろ運転手は運転手で必死に私を捜していたらしい。しかしそんなことを知る由もない。またあとになってベルギーの携帯電話がベトナムで通じることがわかったのだが、このときは電話も通じない(と思っていた)。
「タクシー?」と近寄ってきた怪しげな「マフィアタクシー」に乗ることにした。彼自ら「マフィア」と名乗るぐらいだし、20ドルと一応リーズナブルな金額で交渉成立。「もう一人乗せる。みんなタクシーなくて困ってる」という彼の言葉を信じる・・・というより、もう荷物は車に積まれてしまっているし、疲れ切って動きたくない。こういうときにもしかしたら「さらわれて」…妄想はいくらでも浮かぶのだが「めんどくさい」。
よりにもよって、なんでこの体調のときに「勘」働きをしなくてはならないのか!
いやはや、ゴルゴ13には程遠いわが身なのだが実際に起こってみるとなんと動きの悪いことか・・
数分待っていると、一人のアイルランド人が乗り込んできた。はっきりいって「ホッと」した。なんとエル・サルバドールからサンフランシスコー成田—ハノイと旅してきたという彼は、私などとは比べものにならないほど、ぼろぼろだったにもかかわらず「以前ヴェトナムに住んでました。こういう闇タクシーはここでは大丈夫ですが、マニラでは絶対ダメですよ」と念を押される。彼も「マフィアの一味?」と思わなくもなかったが、とにもかくにも車は出発。すでに朝の2時だ。
夜の道をすごいスピードで走る。「腕の良い」ドライバーである必要も理解できる。ときおりなにやらキャンバスの大きいものを積んでいるオートバイの横を通る。
何かと思えば、そればすべて商品。横5メートルもあるような木をまとめたものだとか、ぎゅうぎゅう詰めにした衣類だったり。
「ときおり犬が詰め込まれてる」と相乗りしたアイルランド人。
「・・・・」
30分ほど走ると少し「街」らしくなる。
「どうやら、とんでもないところには連れて行かれないらしい・・」
ほどなくホテルに到着。明るいロビーについた時は心からほっとしたものだ。
心配した本名さんからも電話が入り、「大丈夫?ああよかった無事で。」
本当によかったよ。無事で。風邪なんて心配してるより「命」の心配しました。ホント。
翌日からリハーサル。今回はラロの「スペイン交響曲」ともう一つ「ロシアンコンチェルト」を弾く。この「ロシアンコンチェルト」は私もオーケストラと音を出すの初めて!
わくわくする。重厚な金管の響き。静かな弦のアンサンブル。
まだ、いろいろ勉強することはいっぱいあるオーケストラだが、なにしろ人々が温かい。
休憩時間などみーんな大部屋に入ってきて「お茶飲みますか?フルーツはどう?」さりげなく気を遣ってくれる。
それになんといってもあの、屈託のない笑顔がいい!最高。
本名さんにも「これじゃあなた、はまるよねえ」と言ったとおり、なんとも「居心地のよい」団体なのだ。
ベトナム戦争から30年。そのさなかを、地下で練習し続けた人たちも多くいる。
「僕は青空を見ると悲しくなる」
「なんで?」
「戦争のとき、アメリカ軍の飛行機が飛んでいてその後ろにベトナム軍。気づいたアメリカ軍はすぐに飛行機をバックさせて、ベトナムの飛行機はすぐやられる。それをいつも見上げては悔しい思いをしていた。
でもカストロのおかげで、ベトナム軍のパイロットが2・3ヶ月で操縦することができるようになった。だから今度はそのバックしてきたアメリカ軍の飛行機のそのまた後ろに2機控えていて、バーンと撃ち落としたもんだよ!」と話す。
今、ベトナムの戦後の在り方がちょうど日本の第2次大戦後の私たちの世代と同じなのだ。すっかり「過去」のものとして感じているベトナム戦争について、またその後のこの国が歩んだ道のりについて、倒れかけた階段の上で練習するこのオーケストラの人々を見るといろいろ知らないことが多すぎる!と思った。
言葉ができればもっといろいろコミュニケーションしたいなあ…と思った。
しかし演奏している最中のニュアンスなどで彼らとはよく、目くばせしたり、心を通わせたりした。ふと気がつくと、向こうも気がついて見ている・・・・そんな人たちがオーケストラの中に何人かいるのは本当に楽しいことだ。
最初の2日は練習以外ベッドに伏せていた私だがその「病み上がり」に食べた「山羊鍋」の味は忘れられない。
もともとブリュッセルでも「ヴェトナム料理」にはかなり詳しく大好きなほうだが、ここ本場で、また土地の人に連れて行ってもらう屋台のおいしいこと!たくさんの香菜、ライム、トウガラシ、ごまだれ、いろいろなお肉。それらをするするっと巻いてどこからともなく「yuzuko.do-zo」とだしてくれる。人にやってもらうなんて、アルゼンチンのレストランで、私のパンにバター塗ってくれた人以来!オトコが親切だなあ・・・(笑)
なんだか、イキイキした人たちの顔を見ていると、こちらまで気持が温かくなる。そして、不思議なことなのだが彼ら一人一人の個性が出てくる。
「みなそれぞれに美しい」
このハノイのるつぼのような中心地は、人々の様子を見ているだけでもおもしろいが、「絹」のお店がいっぱいあって、わたしにはたまらない ところだ。
ふと入ったお店とオーケストラから推薦されたお店が一致してそこでなんと5着もドレス作っちゃった!だって格安だもの!オーダーメード、わたしの寸法に合わせて数日で出来上がる。色とりどり、質とりどりの布地は選択に困るほどだ。「仮縫い」「私の音楽会に来る」などもあって、お店の人たちとも仲良くなった。できれば今現在やっとひまになったブリュッセルから「飛んでいきたい」場所のひとつだ。
アジア人でよかった!
最後の日に伺った日本大使館で、服部大使とも話をさせていただいた。
「ベトナムはやはり仏教国ということもあって、アジアの中でもホッとするところです」と語られる大使は、中国、インドネシア、フィリピンと歴任され、今度パリに行かれる。
「パリの面白さはまたかけがえのないものですが、ここベトナムにいる時のような、くつろぎはきっとないです」
私はそれがよくわかる。
「見た目」は何よりも強いのだ。パりに、ブリュッセルに何十年住まおうが、やはり私たちは「アジア人」。
そのためにもこれから、日本がリードしてゆくべきものがたくさんある。
オーケストラのメンバーたちは「日本に行く」ことにあこがれ、なんでも吸収しようとする。時間があればどんなに「教えてあげたい」ことか!
きっと、砂が水をふくむように彼らは吸収するだろう。
経済の力だけではない「文化力」をもって、アジアの人たちと交わる。繊細さ、あの味付け・・・まれに見る「品」があった。温かさがあった。
ヨーロッパに戻り、パリから特急タリスでブリュッセルに向かう。
1等車の切符をもっていながら「車両が遠い!」と、がらがらの2等車に座っている私に「40ユーロも損してますよ。ま、あなたの選択ですけどね」と冷たく言い放った車掌。
「ああ、ヨーローパに戻ったんだ・・」といささか心冷たい気分になったものだ。
「個人主義」とか「国家」とか、話を大きくするつもりはない。が、これからの「世界平和」は、もしかしたらアジアの温かさにあるのではないか・・・とふと思った。
本当はそれを敏感な人はすでに感じ取っているから「ZEN」などという言葉が大流行しているのかもしれない・・・