50本の薔薇

先日ついに50歳になった。
まったく信じられない話だ。
その前の日も後の日もさして変わりはない。
大人になって『誕生日』というほどのことはない・・というのは日本の傾向で、こちらでは誕生日は、お正月よりクリスマスより『個人的』な事柄だから、必ず忘れずに声をかける。
そのため「カレンダー」も売られている。よくトイレに掛けてある。
これならば、ことあるごとに目にするから忘れることも少ない。

50歳というと日本の『還暦』なみの大パーテイーをする人が多い。
仕事も一番脂がのって、それなりの位置をしめる。
私生活においてもなにがしの『家族』がいる。また独り身でも、友人、親戚、親・・・と絆の多いことに変わりはない。ここぞとばかりに「披露」する人もいる。

ある程度の年までは、年をとることが、なにやら「老いる」ことになる。
ここまでくるともうそうは言っていられない。
白髪も増え、立派な「老人」の入り口に立つことは自他共に認めざるを得ない。

といって気持ちはちっとも昔と変わらない。子供たちのテイーンエージャー、生徒たちの20代。友達の30代。そしてごく近い40代とそれなりの「年代」を感じることもできる。母のもうすぐ80代もわからないけれど「感じる」ことはできる。

人間誰でもどの年代でも本当はそういうものだと思う。

近頃のインタビューでは「何かアンチエージングのためにやっていますか?」という質問が多い。「何もやっていません」というと、具体例を挙げて「では更年期はどうですか?歯周病はどうですか?しわは気になりませんか?太った?ということは基礎代謝が落ちたんですね」とひとごとながら、よくぞ気にしてくれるものだと、感心する。

人が「年をとる」ことは当たり前だと思っているから、別に白髪染めをするわけでもなく、しわとりをするわけでもなく、野放図に素顔をさらけだす。

職業柄そうもいかない・・という人もいるが私の場合「ほかで勝負できる」のも幸せというものだ。

技術は確かに指のまわるスピードから考えたら、若いころのほうが楽だったかもしれない。でも個人的に振り返ると、若いころはなんと難しく音楽をとらえ、どう弾いていいかわからず、まったく無駄の連続の練習をしていたものだと思う。

使ってわかる自らの体はそのうち、できることも、できないことも、はっきりしてくる。

反対に「音楽的にやりたいこと」は、前より俄然はっきりと「見えて」くる。

これも、自分が年をとったおかげだ!


50歳の誕生日には夫が、50本の色とりどりの薔薇を持って現れた。
その色合いもさることながら、量にはわれながら感嘆した。

数日後、その薔薇の水切りをした。
一度ばらばらにした花束は、もうとてもひとつの花瓶には収まらず、みんなに「おすそわけ」

ひとつずつ枝を切り、葉をそろえ、並べてゆく。
花瓶の数はちょうど4つ、家族それぞれの部屋に置いてもちっとも貧相ではない。

「年を重ねる」というのはこういうことなのかもしれない・・と思った。

2007年12月 ブリュッセルにて
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