議論を超える事

フランス語は戦前まで外交言語としてよく使われていたときく。
一番「あいまいさ」のない表現ができるからだそうだ。

フランス語教育は小学校から3段論法。子供でも「こういう事。どうしてかというと・・」という会話で育つ。
それが続いて大学に入るのでとにかく口が立つ。理論という点では私など全く太刀打ちできない。

何か言えば「なぜですか?」と聞いてくるのが当たり前。
弟子にもそういうのがいるので「口閉じて弾け」というときょとんとした顔をしている。
たまには暇つぶしにおしゃべりに付き合う。あたまの良い子は何かしら一言見つけてきて「そうそう」とこっちが勉強させてもらったりする。

あいまいさ~~

例えば2者択一しなくてはいけない場合、これは表現するときどちらの方法をとろうかなあという練習段階での話だ。弓をアップかダウンか、指使いをどうするか…色々悩んだあげくに演奏会に臨む際はどちらかに決めなくてはいけない。そしてそれを仕込んで身につけなくてはいけない。
弾ける子ほどそのアップかダウンかの運弓法が確かで迷ったりしないものだ。
レッスン中フレーズの途中から始めて運弓が逆でも平気な子たちはそこまで身に着いていないことを示す。
アップかダウンはそのくらい表情も変わる、いや変える事が出来るのだ。

例えば共演者と音楽を作り上げていく際、「ここはどうする?ここはクレッシェンドする?」
ひとつの音を変えると全体の音楽が変わる。あたかも川の中の石ひとつ置き場所を変えると全体の流れが変わるのとも似ている。

しかしながらその上で「何も言わない」事もある。
お互いの内なる言語は違うかもしれない。
聞きながら、そのときながらの音楽を弾く。

昔マルボロでルドルフ・ゼルキンと共演させていただいた。彼との練習は最初から最後まで通して終わった。緊張した。質問もいろいろあった。でも何も言えなくなり、それで弾いてそれでよかった。

江藤先生についていた頃も色々質問を持っていっても結局声にしたことはほとんどなかったような気がする。
おじけづいた事もあるだろうが納得したというよりその必要がなくなったからだ!

大いなるものは全てを受容するのかもしれない。

                          2017年10月パリ






ページトップへ戻る ▲