脳の中
1月に日本に行った時の事だ。乗継時間が5時間もありその間に優雅に友達とお茶・・などして着いた東京で荷物がない、と報告された。
青天霹靂・・・いつもこういう事態は全く予想していない時に起こるのだ・・・
しかし理解しがたいのはブリュッセルで預けた2つの荷物のうち一つは無事到着している。一緒にチェックインしたのだ。形態が違うので順番には送られなかったという事なのだろうか?
申し訳ない、到着次第お泊りのところにお送りします、という業務員の声も遠く私は心中「これは困った・・」と声もなかった。
数日後にリサイタルがある。
その譜面をすべて荷物にいれた私が悪い。
その中には三善晃のヴァイオリンソロ曲「鏡」も実は入っているのだ・・・
昨年暗譜で弾いたのが何とも難しくて今年はきちんと楽譜を置いて弾こうと練習してきた。
暗譜で弾くのはだんだん曲がこなれてきて、頭にも体にも指にも心にも入ってくると自然とできる事だが、やはり演奏会で譜面を見るか見ないかで仕込み方が違ってくる。
以前ベートーベンのヴァイオリンソナタすべてをエルバシャというピアニストと一緒に暗譜して弾いた。
わかっているつもりでも・・・怖いものだ。反面、きちんと入っていると何とも自由な空間をステージ上で持つことができるのも得難い魅力の一つ。頑張って暗譜した。要するにピアノパートもすべて完璧に覚えるという事。
はてさて困った・・・
同時にそれからタクシーの中、家について「お帰りなさい」の母の声もうつろにひたすら頭の中だけにある譜面を再築しようと時間をかけた。
書いてみよう!
暗譜で行き詰った時にやったことがある。おもしろいほど書けないものだ!いったい何拍子?どこから始まるの?からはじまって音はまだ良いとしてもリズム、ニュアンスとなると全く手に入っていなかった事が酷なほどに明らかになる。書くテンポは弾くテンポよりずっと遅いので、勝手に指が行って弾けてしまう奇跡も除かれるわけだ。
あるときは立って、ある時は弾きながら、突然パズルのように「ぽん」と忘れていた箇所が見える。やはりきちんとゆっくり仕込んである部分は出てきやすい。
もっとちゃんとやっておくんだったなあ~~
後悔先に立たず・・
ともあれ、明日の本番を前に、何とか楽譜はほぼ完成したのだが、夕方、幸いにも
本物の楽譜の入った荷物が到着した
さて、私が書いたものとどのくらい合っているだろう?と興味津々だ。
昔冷戦時代、ハイフェッツの弾くワックスマン作曲のカルメンファンタジーを聞いたソビエトのヴァイオリニスト・レオニード・コーガンはどうしてもその曲が弾きたくて仕方がない。しかし譜面が手に入らない。仕方ないので聴音した、という。数年後、楽譜が手に入ると全く間違っていなかった・・・
という話とは程遠い「脳の中の絞り出し」を経験した私はほぼ音があっていたけどリズムは・・・という程度で我慢しなければいけない。
おかげ様で「まったく何も情報がない時」に頭の中にたまっている引き出しの中からどうやって情報を引きだすか?のとても貴重な体験となった。
勿論頭だけではなく、体で覚えている、あるいは表情で覚えている事もたくさんあった。
本番は心置きなく譜面を見て、その美しく、難しく、表情豊かな「鏡」を演奏する事ができた。奇しくもこの日1月10日は三善晃先生の誕生日でもあった!
脳の中・・・は私達が思っている以上にたくさんの情報があると思った。
それを順序よく引きだすこと・・・それは頭の中だけに限らない全身全霊の作業・・あるいは意識していない部分の大きさに気が付いた良い経験となった。
2015年2月