なんとかなしい・・・
秋になった。
しかしここヨーロッパはこの1週間まるで真夏日のような太陽の光だ。
オランダの島から帰る車の中ではまるでトルコのような・・・そういえばあの車中冷房を入れないで窓開けて爆睡したことに比べると快適なメルセデスの冷房の中私は頭が痛くなった。
頭痛・・というのはほとんどあることではない。
久々の「フェステイヴァル」参加のためか、昔の仲間と夜遅くまで話していたつけか!
首がかちかちだ。
家に戻って数時間、いや一日かかってやっと緩んだかもしれない。
まったくもって鈍っていたというか・・・
しかし商売、ある程度の「鈍さ」もないと世の中渡っていけない(苦笑)
島ではベートーベンのトリオ・俗名「幽霊」を弾いた。彼の黄金期と言われる中期の傑作のひとつ。まったく良く書かれている。譜面のめくりも含めて?!完璧。
この数少ない音たちの中にどれだけ多くの事が語られることか。
時の経過との計算はまさに脱帽だ。
3日間の滞在だったが普通に比べて演奏する曲がこの「幽霊トリオ」1曲だったので、ずいぶんと時間があった。とはいっても、仲間はみな他の曲・・・たとえばシェーンベルグの浄夜、などの練習で忙しい。自然と一人で行動することが多くなった。せっかく室内楽をやりに行って一人でいるのも以前ならばかなり堪えたかもしれない。
このフェステイヴァル「kamer muziek fest Shiermonnikoog」も今年で10年を迎えた。コンソナンスの人たちと会ったのもここだ。この10年の間に彼らとの距離もだいぶ変化したかもしれない・・・フェステイヴァルそのものは年を追うごとに客層が広がり、今ではチケット入手も困難なくらいにまで発展した。その上今年は今季最後の太陽を拝もう・・と島への船は満員。いつもはひっそりと霧に包まれる街路はまるでシャンゼリゼ通りのようだ!
私は初めて自転車に乗って海まで行った。延々と続く北海のだ~れもいない夕暮れ・・・空と海・・それも遠くにある海岸線と干潟に戯れるカモメの声を除いては驚くほどの静けさだ。
「孤」というものが自分とたとえばこの自然との関係なのかもしれない。
寂しくも、こわくもなかった。夕日は常にあたたかい・・・
「疎外感」とは違う「孤」を初めて体験した。
家に戻り・・・次の曲たち、バッハのh-mollパルテイータとブラームスのクラリネット5重奏曲などをまた練り直す。
なんとかなしいことだろうか~~
晩秋を待たずとも、秋の光の中で、すでに季節はめぐり、天高く空青く・・の藍色にも哀愁しかわかない。
このプログラムを組んだのはもうずっと以前のことなのだが、なぜだか今の日本のあり様を共有しているような気がする。
短調の曲ばかり、それもh-mollというかなり特殊な世界は偶然に現れたのだろうか・・
またしても「世の中に偶然はあり得ない」と思ってしまう。
16日の山形室内楽のプロではモーツアルトのこれまた短調のカルテットを弾く。父の葬式以来手にしたことがない曲だ。
ソロの演奏会で「黒」のドレスを着て弾くのにかなり抵抗があったように、リサイタル、室内楽のプログラムを組む時もこれほど「短調」に徹したこともなかった。そんな理由も勇気もなかった。
しかし今、すぐに明るさを求めるのではなく、心底哀愁に浸り、味わい、底を見るのも悪くはないと感じている。暗いなかでの明るさへの「憧れ」
復興地での「希望」・・などと私たちが簡単に言葉にしては罰が当たるのだが、それらすべてが音楽の中にあるのだ。
センチメンタル・・・とはまさにcon sentimentとブラームスがクラリネット5重奏の3楽章のスケルツオで書いている言葉なのだが、その「ゆれてゆれて」動く心のありさま、ひだ・・・とこれも数年前から書いてきたことがついに「バッハ-ブラームスプロジェクト」が10月15日フィリアホールで実現する。
バッハは背骨のよう、ブラームスは心のひだ、私の30年余りの音楽生活の核をなしてきた2大BBの世界、今身も心も浸っているところだ。