雲が流れてゆく。
久々に眺める空だ。
随分動きが早くその向こうに落ちた夕日が明るい。
午後8時過ぎ、日もだいぶ短くなった。
なにしろもう晩秋のような気分なのだ、ここブリュッセルのこのごろは。

夏の間のがんばった体が休みを求めるようにあちこち痛くなる。ぎくしゃくしている。日焼けの「つけ」もまわってきたのかな?

相変わらずの大幅な雲の移動はだんだん黒い雲に変わってきて、そのうち一雨ざあ~とくるのかもしれない。

それにしても視界の上半分は空だ。
アパートの上の階という事もあるが日本から来た生徒などは、「ブリュッセルって空広いですよね。日本ではこんなに(空)見てなかった気がします」という。
確かに東京を中心とした大都市の建物密度はすごいものがあって、おちおち空など眺めていては人にぶつかるかもしれない(苦笑)

あるいは山の多い日本の景色はなかなか空が「一人占め」できる面積は少ないかもしれない。

いつもあるのに見えないこと。

何年か前のクルシュベルの時に書いた「心のパレット」ではないが、つくづく何事も見ようによっていかようにも見えるものだ、と思う。

ベートーベンのピアノトリオを仕込んでいる。秋にマルタ・アルゲリッヒさんと山崎さんと一緒に共演する。(幽霊)という名前がついた5番のトリオはたしかにムードがガラッと思いがけなく変わったり、またつかみどころのない展開があったりする。マルタがどんな音を出すのか今から本当に楽しみだ。
音の数はきわめて少ない。

そこが難しい。

そういえばこの間の4月11日の日本救済コンサート「Play and Pray for Japan」の時、アンコールにG線上のアリアを・・と思った。しかし彼女が登場したのも本番40分前。他の出演者もいるし、結局弾かなかった。
最後に頼んだ私が悪いのだがその時彼女がいかに真剣に楽譜を見たか・・・それこそ音の数など、通奏低音プラス、和音・・だけなのに!彼女のすごさを垣間見たような気がした。

以前「メシアンの2つの音」で書いた最後の曲。そこでヴァイオリンが奏でる最初の2音の事を書いたことがあるが、このベートーベンのピアノトリオ第5番(幽霊)の2楽章の最初の2音も然り。Sotto voce (ささやくように)のレント、一番遅いテンポ表示だ。それをどうやって切れずに、そして強調することなく慎ましやかに、しかしエスプレッシーヴォで弾くのか。大変な技術と考え方が必要なのだ。

短調からふと明るくなる様子。雲の合間に見える陽の光のようなのだが、それもまた心のパレットから出る暖かな色が求められる。6度以上の音の跳躍には感情がこもっている・・とバロックの弾き方の時言われたことがある。それならばそれ以上の7度、オクターブ(8度)10度となればどれだけの想いをこめろと言うのか、それもピアニッシモで!

そこに彼の音楽の凄さがある。

3楽章は突然フォーク調になったりする。そういえば最後のカルテット、作品135の最終楽章にも(手まり唄)のような幼児の童謡かと思われるような節が出てくるのだ。

このピアノトリオは作品70だがもうすでに後期の匂い、またピアノコンチェルト5番のような移り変わりもみられる。

彼の全人生通しての人格、音楽というものが感じられる。

それを経験する事がなんとも言えない喜びだ。

トルコ・・シルクロードからの流れでうちにあった河口慧海の「チベット旅行記」をまた読んでいる。明治時代に僧侶でたったひとりでチベットに経典を求めて旅をしたエライお坊さんなのだがその話がなんともおもしろいのだ。
愉快・・という言葉がよく出てくる。風光明媚な山々を見上げて、人々の生き方を見て、羊に逃げられて追いかける様も書いて・・・なんとも一緒に旅をしている気分になる。

30キロ以上の荷物を担ぎ、雪山を15日も一人で磁石だけ頼りに歩き、死にそうになりながら、あるいは砂漠で水が飲めず、とんでもなく大変な旅であっただろうに!

井上ひさしさんが

むずかしいことは やさしく
やさしいことを ふかく
ふかいことを おもしろく
おもしろいことを まじめに
まじめなことを ゆかいに

書く、と言っておられたそうだ。

音楽もまさにその通りだと思ってやっている。

2011年8月 ブリュッセル
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