イスラム教、その世界
いままで あまりかかわることのなかったイスラム教に今回の旅で接した。
偶然・・・また繰り返すがこれは必然的に表れることだ・・・に訪れた、コンヤのメヴラーナ美術館。
その師、「メヴラーナ、ルミ」を今度はシルクロードの写真集、本の中で見出した。
アフガン出身、そののちコンヤに移り住み、神秘的イスラム、内面を見る、神との一体化を目指し踊る。
天と地の間にある綱のその結び目が人間である・・・ような概念。何より「いらっしゃい、いらっしゃい」とみんなを取りこむ。
修業自体は禁欲的、段階的なものだが、その思想は海のように広く、水のようにとぎれることがない・・というのも前回書いたように「なんだか老子の思想に似ている」と思った。
それに今回見ることなく終わってしまったダルヴィシュダンス「セマ」の踊り中にヴァイオリンも出てくると言う。正倉院の琵琶と同じものを見たアンタリヤ考古学博物館。彼らもきっとコンヤを通ったのだろう。
帰りの道、昼食のために止まったレストランで結婚式が行われていた。
「ツーリストなんて見たことのない人達ですから一緒にぜひ写真を」とガイドにもウェイターにも言われたのだがなんだか雰囲気に圧倒されアルコール一つ飲まず、ものすごい猛暑の中、肩どころか腕、頭、すべてを覆った派手な衣装を着ている女の人達の前で、肩だし、素肌だしの私たちを見る目も気になって撮らなかった。悔やまれる。
家に帰り、そのまま「シルクロード漬け」になり、本、ネット、写真集、DVD、などを見ていると、ますますイスラム教というもののイメージが変わってきた。
一夫多妻も、戦争で未亡人になった人達を皆悲しませなくするためのもの、ヴェールを被る女の人は(守られている)サルタンの4色の指輪、それをめぐって争う女たち…どこでもある話だなあ~
これも偶然のことだが、私の隣に座っていたおばあちゃんを良く気遣うお爺ちゃん・・・
見ていて心が和んだ。
別れ際に(うちに来て、うちに来て、すぐそこだから)と言葉一つも通じないのに我々も招こうとする人達。
ヴェールこそかぶっていなかったけれど妙齢の美女は涙を隠そうと別れ際に大きなサングラスをして手を振っていた・・・
あとでメールが来た。
一生懸命英語の辞書と格闘しながら書いたのかもしれない。
(一生で一番楽しかった2日間でした)
「キャラバンサライ」と言う名前を見つけた。
私が感動したシルクロードの道々、30-40キロおきに作られた旅龍。そこでは何しろ(安全確保)のために各国が総力を挙げて向かい、家畜と遠くないところでの寝泊り、食事がただで出されたのだと言う。アフガンの「オピウム」けし、麻薬もなんと絹と取引されていたというのだから!
マルコ・ポーロのような人はきっとたくさんいて、これも偶然に彼が内戦に巻き込まれ足止めを食らっていた留置場で暇つぶしに話をして、それをたまたま(面白い)と書きとめた人がいたから、記録を残せた。彼の名が広まったと言う。塩野七生がヴェネチアの1000年の歴史を書いた本を同じ時期に読んでいるので面白い。
アレクサンドロ大王の遠征、ヘレニズム文化とそれによって滅ぼされた国々、ペルセポリスなど。一度行ってみたいものだと思う。
そして入ってくるインドからの仏教。これがまたどのようにからまって、遠く日本まで行ったのか。
旅人が実際そこまで意識していたのかどうかはわからないが皆歴史上、東西の商売のために命をかけたのだ。
天山山脈、カイバル峠・・・タクラマカン砂漠・・・今また学生時代の夢が再び沸き起こる。
私が旅行したいのは、その「足跡」だ。
今回の旅の延々と続く道。コンヤからの東西へ伸びた道。それを実際体で体験した。風を感じた。だからこそ、ヴィデオで見ている(絶景)とは違う感慨があったのだと思う。
なにしろ歴史の足跡は長い。幾度にも重なる。
あたかも「バッハ」の音楽を毎日弾き続けているように。
飽きない。
森での散歩が始まった。
ちょっと寒い朝(12度しかないのです)うっそうとした森に入ると暖かい。
じめじめしている。
3日目の朝、(あ、犬だ)と思ったら鹿の子供、バンビのようだ。角があったから少年かな?
恐れるでもなくこっちを見ているので私も無視しているふりを装って歩き続けた。
木の後ろに隠れながらも逃げることはなかった。
みな共存の意識とはこういうものではないだろうか・・・
トルコにいたイスラムの人達の暖かさがブリュッセルではなぜかとげとげしく避けて通る羽目になっているのは私たち、西欧人のせい?キリスト教、あれほど苦難に満ちた像をあがめる宗教もまたない。
ヴァチカンのシスティーンチャペルに描かれたキリストが太って「アポロン」のような体型をしている。
これで良いのだ!
と勝手に想像を膨らませているこのごろ。これも夏休みの特権かもしれない。