活元会、夏(2)
お城のマスタークラスも無事終わり、皆それぞれの想いを抱いて夏休みに突入。
我々はその余韻を味わう暇のないほどの時間でトルコに出発した。
その勢いある「トルコの旅」も過ぎ、やっとじっくり家にいる時間が出来た。
子供たちはまた友達家族と南仏に出かけてしまった!
旦那も仕事場。
全く1人になり、かつ、演奏会もレッスンすることもないと言う貴重な時間。
ポカーンとしているはずが、性格上なかなかそうはいかない。
この際、ガレージの整理といらなくなった衣類、本の山を片付ける。
全く「溜め込む」事にかけてはひけをとらない。捨てられないのだ。この調子でお金もたまれば良いのだが要するに(使ってしまう)からそっちの方は貯金額ゼロ!ヴィオリンの借金はまだまだあるし・・・(苦笑)
ガレージ整理を子供たちに「一緒にやってちょうだい」と言うと「ええ~この前やったよ」と息子。
この前とは1年か2年前の事だ。
またまた溜まってしまった・・・
もう子供もあてにはならないし、それでも「えい!」と覚悟してお手伝いの子と片付け始めた。
20年来使ってきたダイニングテーブルはガラスの大理石の足・・とかっこいいけど重たい事限りない。「ちょっと動かす」わけにはいかないのだ。
それも含めて「ガレージセール」もやった。
モルダヴィアに帰ると言う友人は「はとこの分」まで子供たちの小さくなった衣類を持っていってくれた。
ここブリュッセルにも(救済衣類箱)があり、そこに入れればよいのだが、できれば(知人)のところで生きればこれに越したことはない。
今や多分にお肉がついて(!)入らなくなった私のコンサートドレス、母の手作りのものも含めて生徒や友人たちに分ける。こうやって生きてくれれば何よりだ。
そしてまた久々の活元会があった。
「食べすぎです」と言う人、「喉が痛い」と言う人。みんな若い日本人たちの「おしゃべり」の場でもある。私もこの時ばかりは(先生)であることを忘れて一緒に交わる。
運動はいろいろな体験後の「ゼロにもどす」機会になった。
通常より動きが出ていたと思う。
「せねばならぬ」ではなく、(やりたい!言いたい)と物事を進められたら良いなあ~
そういえば昔マールボロ音楽祭に行った時のことだ。
秋のツアーのプログラムを決める際なかなか決まらなかった。
ルドルフ・ゼルキン先生に相談すると「じゃあ一緒にドライブしながら考えましょう」と自ら運転していただいた車の中で談義したことがあった。ゆっくり車を走らせながら「シューベルト?ブラームス、ハイドン?ベルグ?」と綴ってゆく曲目の中で、なんとなく遠慮しがちに「それでもいいです」と私が言ったところ、彼は「それじゃだめ。Ja!! と言わなくちゃ」と、とことん納得するまでプログラム決めに付き合ってくれたことがあった。
車を降りる際、折れていたアンテナの先に触った私が指先を切った。「なめておくといいって娘が言ってた」と気遣ってくれたゼルキン。翌日その「アンテナの先」にはきちんとテープが張られていて「よく細かいところまでやる人だ」と感心したことを覚えている。
また脱線!
私たちの「活元会」は全くの素人集団だ。先生がいて下されば・・と思う事もあるのだが、子育て同様、(うちでやってる活元会は私が良いように仕切る)で日にちも時間もこちら任せ!
そこでできる事をやっていけばよいと思う。
個人個人が自分の健康に・・・いや存在に責任があり・・・いや、そんな難しいことを言わなくても、勘を信じて生きていければ楽しいだろう。
活元中ふっと湧いては消え、湧いては消えるトルコの景色、風・・・
写真を何度も返り見て、原稿で頭の中で反芻したもの以外の体で覚えている感覚・・・
私がなぜあのようにトルコでの良い体験をできたかと言うと、言葉一つ通じない彼らと随分近いところで楽にコミュニケーションを取れたからだ。
それはボデイーラングエージであり、目であり、行いである。
音楽は言葉の前に通じるところがある。
活元運動も然り!