震災から一カ月

1000年に一度という巨大地震、それに伴う津波、そして原発、最後にはあらぬ風評といういわば4大災難に見舞われている東北の方々、全く言葉もない。
慣れる・・・というものでもあるまい。
避難生活を強いられ、その上先祖代々の土地も職業もプライドも何もかも取り上げられた!
彼らは一体何をしたと言うのだ。

震災・・という言葉さえ正直言って私には関東大震災の大昔の響きしかしなかった。

3月11日の午後は、翌12日の演奏会の練習に朝上野に出かけ、ちょうど自宅に戻ったところだった。
時差のため昼寝中にその「揺れ」の長いこと、ただものではなかった。
結局12日のコンサートは中止。それでも13日の「ルネ小平」の演奏会はやった。
計画停電なるものが始まる前で満員のお客様の前で舞台が揺れているのか私のひざが緊張して揺れているのかわからなかった。
計画停電のアナウンスが戦後のように(知らないけど!)町を練り歩く消防車によって伝えられる、いかにも(非常時)と言った雰囲気の中心配する家族、子供たちにもせがまれて、16日にブリュッセルに戻った。
成田は脱出しようとする人達でいっぱい。まるで避難所のような混み具合で交通機関が心配で2日前から来ている人達がみんな床に寝ていた。
しかしこれは一時のこと。被災地の方々はそれが毎日の事。政治家は一夜でも味わってみればよい。
子育ての大変さをオトコが理解しにくいと言う前に一日赤ちゃんを預けてみればいい。
ひとりで・・・説明はいらなくなる。

後ろ髪を引かれるような思いで日本を後にした私は友人と一緒にこちらで急遽救援コンサートを企画した。
「play and pray for Japan」だ。
時差のある体にとって真夜中は良く寝た朝と同じこと。夜が遅い生活のマルタ・アルゲリッヒさんに電話をして説得した・・・というより彼女は日本の惨状を我がことのように感じてくれて、快く(当り前よ)と言った言葉で救援コンサートへの出演を快諾してくれた。
奇しくも4月11日、震災一カ月後、ホールも彼女の日程も、又ささやかなことだが私自身の日程もぎりぎりであった。12日には日本に発たなければいけなかったから。

チャリテイー…救援コンサートというものを「オルガナイズ」する大変さも切符を売るためにチラシ2800枚に町工場の流れ作業のように文章を折り込む事もみな協力があってできた。
ヨーロピアンパラメントに働く友人たち、三菱東京UFJ銀行さんの西本さんとコピー機。そして快くホールも無料で貸してくれた学長、その下で当日のスタッフからレセプションの手配、桜と富士山という今本当はこういう季節なのですよ~と声を大にして叫びたいようなチラシも学校が作ってくれた。子供たちの学校のPTA、また生徒たちも当日の軽食作り、CD販売などを手伝ってくれた。
全ての友人たちに感謝する。

演奏会は大盛況。エリザベートコンクールに優勝した1980年以来ぐらいのテレビ、メデイアの取材もあり、オランダ語までしゃべっちゃった!思わぬところで反響があった・・・

「マルタ」の尊さは言葉では言い尽くせない。開演40分前に彼女が現れただけで空気が変わった。
海老彰子さんとラヴェルのマメールロワの練習にすぐ入る。一音一音いつくしむような音の響きを2人で検討する。もうちょっと大きめ、バランス、響き、そのすべてが音楽のためにある。
私もシューマンのソナタを通してもらった。なんというか音楽会とか本番とかを超越した天空の世界。全身全霊でその一瞬たりとも逃したくない!!と思った。
正直前夜は寝られず朝8時まで起きていた。地震も怖いけど今日のコンサートを弾く怖さは(それどころではない)と思った。これも事実だ。私たちはいつもそんなぎりぎりのところで勝負している。

主人バートのスピーチで始まった演奏会。
「これは日本とか日本人とかいう問題ではなく、自然の神に対峙する我々人類全体の問題です」という投げかけは納得できるものだった。
お琴と共演で宮城道夫の「春の海」を弾いた・・・昨年ちょうど日立で「西洋と東洋のコラボレーション」とする企画に参加した。演奏後に日立駅まで送ってもらった時に垣間見た穏やかな春の海・・・ひねもすのたりのたりかな~~

チラシにあった美しい桜の満開・・・その下にどれだけ沢山のご遺体があるのだろうか・・・

終演後も話しが続いた。
こちらでEUの大使をなさっている丸山さんは今日本バッシングへの対応に体をかけておられる。風評を1人ずつ戸別訪問して説得しておられる。放射能に対する誤解を解き、この際と暗躍する政党にも時間を掛けて説得する。いわば最前線の戦いだ。なんとか欧州議会で輸入制限などが成立する事は避けたいものだ。

アルゲリッヒさんと話したこと。「わたしたちはガレキの処理をできるわけでもなく政治的に活動できるわけでもなく義援金と言っても焼け石に水・・・かもしれない。でも音楽を通してその恐怖、痛み、怒り、そして天真爛漫な希望・・・美しさへのあこがれ・・・そんな心を分かち合える・・かもしれない」
「人間にとって避難所生活というものが物資のなさだけではなく、これから先ずっと「すみませんね。ありがとうございます」と図らずも頭を下げる生活を強いられる物であること。生活の糧もなく。
これは人間の尊厳と言う意味で一番大切な「プライド」を保つことが難しくなっていると言う事だ。1人ひとりのプライドが人間である証拠なのだから!」

そんな会話は朝まで続いた。


日が変わり日本に飛んだ。

たった3週間ブリュッセルにいただけで頭の中の運動会は盛んに行われていたものの、実際成田空港に着いて正直ショックだった。あらゆるものが整っている日本・・・ではなかった・・
節電・・・空港全体が暗い。店も半分ぐらい閉まっている。銀行も然り。すぐ上野での練習があるため駅に行くと「地震による遅れの可能性」との事。そうだった・・・忘れていた!この大変さ・・・
電車に乗ると車内も暗い。外は輝くような春の景色に桜が満開だ。あまりに皮肉だ。
ヴァイオリンを縦に抱え、背を丸めてみんなに習って黙々と歩く・・こんな心境になったのは80年代以前の事だ。
我々は皆この30年電気も便利さも「当たり前」にあるものだと思っていた。はたしてそれが必要だったのだろうか・・・いろいろな疑問を電車に乗っているみんなが分かち合う。そんな気がした。
これから上を向いてやって行かねば・・と言った気配が感じられた。長らくなかった感覚だ。

今回はJTホールの室内楽1回のコンサートのために帰った。
それはそれで素晴らしい体験だった。ベートーベン後期のカルテット・・その多彩で感情あふれる音楽を素晴らしき仲間たちと演奏できる。「なんて幸せなんだろうか・・」と感じた。

翌朝また長い飛行機に乗ってブリュッセルに戻った。その間日本では外来アーテイストのキャンセルが相次ぎ、また余震も絶えない。私がいる間だけでも5回はあった。
余震をどうやって生き延びるか・・のテレビに食い入るように見入る母親や妹たちの隣で夜ブリュッセルに向かう荷作りをした。

来れる自由、帰れる自由・・・でも心は引き裂かれる。

さすがに毎回いやになるロングフライトももしかしたら宇宙の放射能による疲れかも?
などは毎度のことであるがブリュッセルの空港に着いて2度驚いた!
いつもは(あれ?今日日曜日だったっけ?)と思うほど人も少なく活気もないこの街が復活祭と春の喜びに満ち溢れ人々は歓喜の声をあげているではないか!
日本の今の大変さ、身を固くして心を閉ざして生きているような人々となんと対照的なことだろうか!
ふと1ドル360円だった時代の(西欧の気高さ、リッチさ)を思いだした。私が育った60-70年代とはそんな(憧れ)を持ちつつなんとか西欧に近づこう、上に登ろうの時だったから。
一度登りつめたその後私たちは本当に幸福だっただろうか・・・

もしかしたら…もしかしたらこれがきっかけになってより良い日本が再生するかもしれない。より美しく、ち密にあらゆる想定を考え叡智を持って作られた物、心・・・人間。

どうもそんな会議も開かれ始めたようだ。
捨てたもんじゃないぞ、日本人!
世界中に散らばる同胞たちも同じ想いを抱いてやっている事と思う。
できることをやって行こう。
そしてそうできる事に心から感謝する。

2011年4月23日 ブリュッセルにて
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