ブラームスの間奏曲
学生時代、黒しか着ない年があった。次の年は青、それもターコイズブルーからエメラルドグリーン系。確か19,20歳の頃だったと思う。
同じように一年間ブラームスしか弾かない年があった。これは弦楽6重奏を始めて先輩たちとやらせてもらえることになった高校3年の時だ。シンフォニーの一番を図書館で聞いて戦慄を覚え、ピアノコンチェルトの2番、弦楽6重奏は(本当にこんなにきれいな出だしがあってよいのか)と思ったぐらい感動した。また、ピアノトリオの1番、これに似た感動はシューベルトの晩年のピアノソナタB-durの出だしに匹敵する。
そしてそれらの基になっていたのが父が良く聞いていたグレン・グールドの間奏曲なのだ。
私の父はアマチュアのヴァイオリン弾きだった。忙しい会社員生活のあいま、こどもたちにその夢を託し・・・と言っても(有名にならせたい)とか「コンクールで優勝)とか言う事とは程遠い「女の子も自分で生活をたてられるように稼げなくてはいけない」という現実的なものだった。当時ちょうどN響に初めて女性団員として入ったヴァイオリニストも私の従妹だ。私が生まれた時同じ家に住んでいた。彼女のおかげでシベリウスのコンチェルトは譜面を見る前に頭にはいっていた。レコードのジャケットの写真と一緒に。
両親は「桐朋学園子供のための音楽教室」のやり方に共鳴し我々姉妹は4歳の時からまずソルフェージュ、ピアノ、リトミックと英才教育が始まった。そのころの目白の教室は冬は寒く、夏は暑かった。最初のピアノの先生、羽田真理子先生が護国寺に住んでいらして当時下落合在住だった私たちはバスで通ったものだ。背が延びるにつれ(つり革)につかまれるようになるのがうれしかった。
リトミック・・・は桐朋仙川校に移って2年目ぐらいに始まったと思う。江崎正剛先生という方がいわば「実験的」に我々にいろいろな事を教えてくれた。2対3.3対4のリズムを体で感じること。足と手を使って。変拍子、あと打ち、どんなリズムも譜読みも怖くなくなったのはこの授業のおかげだ。即興のピアノに乗って動いた。そんなに考えることなくみんな弾いたり躍ったりしたものだ。作曲・・・「湖」という曲を作った。さざ波の様子をアルペジオであらわした。中間部のメロデイーに困った記憶がある・・・夜半までかかる小学校3年、4年生のこの(金曜の夜創作)に父も母もとなりの畳の部屋で聞いていた・・・
今ではなくなってしまった光景だ。
父はハイフェッツが好きで、カペー四重奏団が好きで、ジュリアードのバルトークもベルグの抒情組曲も好きで・・・何よりテイボーとかヌブーとかのヴァイオリンの音色が好きだった。今考えると(新し物好き)のところもあったかもしれない。メシアンの「トランガリラ交響曲」もあった。
グレン・グールドが話題になったころ、そのゴールドベルグバリエーションからモーツアルトのソナタC-dur。毎日流れているのを聞いて私は譜面を見る前に聞いて全部覚えてしまった!なんの苦労もなく。そういう年頃だったのと無理をしなかったおかげだと思う。
そしてブラームスの間奏曲。
何も分からない私はそれでも18歳で弦楽6重奏に出合うととたんにこの(大人びた深淵)に惹かれたのだ。作品117,118・・・・
ピアノの副科を取っていた私はそれこそ一年中「インテルメッツオ」(間奏曲)を弾いていた。ラプソデイーの2番も練習した。その当時の先生、お隣の三浦かつこ先生、そして浅野先生・・「ずいぶんかわいいブラームスですね~)と言われ子供心に「なにお!」と憤慨したものだ。
それらの感情が実際音になるための奏法を江藤俊哉先生に習った。
そして80年のエリザベートコンクールでのヴァイオリンソナタ1番。今でも、30年経った今でもたまに道でであった人が(あの時のソナタを聞いた衝撃は忘れなれない)と言ってくださる。
全く私は何をしたのだろう!?
いろいろな偶然が重なって、そのコンクールを目にすることなく逝った父の望み通り、私は音楽で生計を立て、かつその恩恵にあずかる事多大なものがある。
今や次の世代にまでそれを伝えようという立場にもなった!
そして今またひもとくブラームスの間奏曲・・・練習したページには指使いだの注意書きだのの書き込みがありなつかしい。練習しなかった曲はやはり難しい。
冬の夜、薄明かりの灯るヨーロッパの雰囲気にこれほどマッチする曲はあるだろうか・・・と思いつつこれもまたブラームスがこれらの珠玉の曲を書いた同年代になりつつ我が身、年を重ねる功名だと感じるこのごろだ。