どん底

この間春に観た『東大演劇同窓会』から縁ができた・・・という訳でもないのだが、日本に戻って数日間、時差で深夜冴えた頭から眠れない。その間、テレビをジップザップする。なかなかこれといって目にとまる映像が少ないのだが、そんな中で引きつけられて、チャンネルを変えられなくなった番組があった。

1990年劇団民芸の公演『どん底』だ。(ゴーリキー作)

真冬のロシア。外では寒風が吹き荒れる。行きどころもない、お金もない、寄せ集めの他人が集まって地下で暖かくなる春を待つ。酔っ払って帰ってくるやから。泥棒ばかり働く人。刑務所帰りの兄さん。その『宿』のあるじっぽい夫婦。警察・・・実はその奥さん、亭主が疎ましくて仕方がない。愛人に「殺してくれるよう」『取引』を持ちかけられるが、ちょうどそのころ出入りしてた『巡礼』の一言で彼は、悪事を働かなくて済む・・・はずが、結局喧嘩騒ぎに巻き込まれ、『殺人』の罪を着せられる。
(ここのところ、果たして本当に彼がやったのだかどうかは劇からはわかりにくかった、わたしは女房がどさくさにまぎれて刺し、その罪を愛人であるペーペルになすりつけた・・・と見えたのだが・・・どちらにしても『はめられた』わけだ!)
ペーペルはやっと『改心』して宿屋の夫婦の妹と一緒になろうとした矢先。
そのいいなずけの彼女にも「この男は姉をだまして、亭主も私も殺そうとした」という風に言われてしまう・・・その妹は姉夫婦に虐待を受けており「この際、私も監獄に入れてください」と叫ぶ。

いやはや世の中うまくいかないもんだ。

片方、舞台下手では、アンナが死んでいく。
「天国はいいところだよ。もう苦しまなくていいよ、ゆっくり休めるよ」と
巡礼にさとされると、
「じゃあ、あとでゆっくり休むから今は苦しくてもよい、もう少し生きていたい」
という彼女。

本当に人間というのはそういうものだなあ。

ついに彼女が亡くなると、みんなが
「あの、うるさい咳も聞こえなくなったか・・・」と。

『生きてる』というのはそういうことだ。

その巡礼(滝沢修)は、それでも、ひょいと「潮時かなあ」と言いながらウクライナだかなんだかの『新しい宗教』を見にでかけてしまう。麻縄ひとつでコートをしめ、ほとんど着のみ着のままのかっこうで、いったい寒風の中で大丈夫なのだろうか・・・なにが『新しい宗教』なんだろう?
ウクライナ地方・・・というと、このごろ音楽学生も増えて以前よりはだいぶ身近にとらえられる。確かにロシアの南部ではある、オイストラフ。ミルスタインなどなど有名なヴァイオリニストがたくさん生まれた黒海の町オデッサ・・・あそこならだいぶ暖かいのだろうな・・・と、私ももうかなり感情移入してしまっている。

余談になるが、しかし今のオデッサはかなり荒れていて、この間ウクライナ人と結婚したベルリッツの先生は、「あそこは、朝から『飲んで』『路上で喧嘩』そして『寝る』という所。環境はひどいもんだ」と言っていたなあ・・・今も昔も変わらぬ『貧困』なのか・・・人間の精神もダメにしてしまう・・・

巡礼を見送った後のみんなの会話もいい。だんだん『いい人』になってくるのだが、なかなか現実はそうはいかない。「お互いの顔を見るくらいなら死んだ方がまし!」といった女(樫山文江)は果たして最後には本当に首をくくってしまった。

生きていればうるさいだけの喧嘩友達のような存在も『首をくくった』となって、またなにかしら『背筋が寒くなる』思いで幕を閉じる。

社会の貧困。希望などない。
底を這い回るだけだ。

真実とウソのはざまって何?

いやあ・・・すごい迫力だった。
演技を通り越して、まるでそこで今物語が起こっているような錯覚に陥った。

こんな『リッチな時間』を持てるのも『怪我の功名』ならぬ『時差の功名』である。

感謝!

2008年6月 ブリュッセルにて
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