空海とバッハ


今回バッハーブラームスプロジェクト第3弾、その日本ツアーの中で、和歌山「緑風荘」の演奏会があった。80名ほどのサロンでお客様の息づかい・・ならぬ演奏家の呼吸を分かち合う稀な機会だ。その演奏会の後一日空いた。主催者岡畑さんの粋な計らいで高野山に登ることができた。バッハーブラームスの仲間とともに!
以前子供たちを連れて宿坊に泊まったことがある。この時は河内長野側から入った。やはり友人の渡邊正直、範子夫妻、彼らは河内長野にクラシック音楽を!と通算87回にも及ぶコンサートを主催されている。うねうね続く山道を越えこの時はいきなり『大門』が出現した。その後宿坊にはいり、高い御膳で戴くごはん、朝の勤行、次の日はお寺を見ることではなく慰霊塔の続く一ノ橋から奥ノ院までの道のりを歩いた。熱い夏の中杉木立の涼しさに癒される。しかしまだ小さかった彼らは、最初こそ元気に走り回って興味ぶかそうに石の積み立てられた塔、お墓を見ていたのだが、途中から「もう嫌だ。帰りたい」と言い出した。ただ単に「あきた」のではなく何かしら感じたのだろう。奥ノ院までは行かずに途中の原っぱで思いっきりかけっこをしたことを思い出す。とんぼが飛んでいた・・・

今回も実は私達皆がそれを感じたのだ。メンバーはヴィオラの佐々木亮さん、チェロのユリウス・ベルガー、ドイツからやってきた。そしてアメリカ人のクラリネット、チャールズ・ナイデイックとヒラサオフィスの松原さん。平佐社長は数日前に奥様をなくされた。奇しくもそのご葬儀の日に私たちは高野山でお参りをすることになった。

今日は日焼けするほどの晴天だ。紀美野を通り、日本の田園風景、田んぼに小川に山々、というあぜ道を通り何十ものカーブを越えて登ってきた。「本当にこの先になにかあるのだろうか?」と気になるのは私ばかりではなかっただろう。
山の上につくと空気の澄んだ雲一つない空の下、観光客も比較的少ない。なんという良き日に我々はここにいることができるのだろう、と感謝の念に耐えない。
金剛峰寺の本寺を詳しく見る。日本一の石庭にもみじが美しい。
本堂の静けさの中で「ここでバッハを弾いたら?」とチェロのユリウスが言う。おととい松本ハーモニーホールで演奏会を行った。その時の演目がブラームスのクラリネット5重奏とバッハのシンフォニアとソロパルティータというものだった。初めて私のバッハ、ソロ演奏を聞いたユリウスは「音の西洋、そのバロック形式との融合、そしてそれだけではない東洋の瞑想、思想が見事に一緒になっている」とほめてくれた。その時の事を思い出したらしい。
そういえば昔から私はいつもバッハを仕込むときに、日本の思想、哲学、例えば世阿弥であったり、また漢字の一文字であったり、そういった事からヒントを得てきた。
例えば有名なシャコンヌの変奏曲に彩られた音楽はその都度四季感がある「枯れた冬の木・・その中に実はじっと春を待つこころがある」「老人が背を丸めて歩く、のはおかしい。若く見られたい老人の心があっての歩き方」とこれは世阿弥の言葉。有名な「初心忘れるべからず」という言葉じりにとらわれるのではなく「その時々の初心」というのは変わって良いものだ。大切なのはその時の気持ち、思い入れ、覚悟、という事など。
そんなことを当てはめていくと単純なメロディーも深みを帯びてくる。
単純なメロディーほど氷山の一角のような奥深さを込めなければ説得力がない。逆に難しいパッセージはなるべくさりげなく、いとも簡単に弾きたいものだ。「ムズカシイデショ」と見栄を切るのは粋ではない。(これはマルタ・アルゲリッヒがふと漏らした言葉だ)

本堂の中、数々の素晴らしい襖絵の書かれた部屋を過ぎ、石庭に出る。ここ日本一の石庭は奥の間を守るためだという。「京都に行くよりいいね」と言い合う。京都から遠く離れたこの聖地には1200年の間に数々の美術品が運び込まれその数は正倉院なみの規模だという。ちょうど行われていたサントリー美術館の高野山秘宝展」にも駆け足で出かけて行った折りそのように案内されていた。

台所の面白さに驚嘆した。ねずみおとし・・とは何たる知恵だろうか!食べ物を下に置くのではネズミにやられやすい。では頭上に・・でもネズミは柱や木を伝ってやってきてしまう。そこで考えたのが紙を貼ることだ。上からやってきたねずみはその紙につかまることもできず、戻ることもできず下に落ちる・・・
黒々と煤に包まれた煙突、一度に38升の米が炊けるという大釜、綱を引っ張れば降りてくる階段・・・

お寺を見たあと一の橋から、奥ノ院まで歩いた。確かに強い日の光を杉木立が優しくさえぎってくれる。最初のうちはいろいろ興味しんしん、なのだが私達も途中からうすら寒いような圧迫感を感じ始めたのだ。これは日本人のみならず、中の橋以降、「玉川」を渡るとその雰囲気も強まる。なんだかあちらの世界の底にいるような雰囲気を体験する。そういえば山形県羽黒山の五重の塔に行った時もその前の「祓川」で子供たちは水遊びをしたくてたまらないのだがなんだかそういう雰囲気でもなかった事を思い出す。それでも遊んだのだが!山道を五重の塔を見つつ登って行った先の神社で目にした赤と白の巫女の姿が今でも目に浮かぶ。特殊な空間・・・それを霊場というのだろう。

中ノ橋に戻り現世界の光の中に帰ってきた。橋のもみじの美しい事!もう夕方だ。
パスしようと思った大門だが運転手さんに「せっかくですから降りて見て言ってください」と言われて下車。大門と言ってもそこに続く参道があるわけではなく、この山全体が霊場なのだという。ふと向かって左を見ると鳥居のある横道が山に続いている。もう日も暮れかかっている中「行って見よう!」と歩き出した。先頭を行く若い松原さんが、駆け足で下見に行ってくれる。我々ものそのそついていくと後ろから来たチャーリーが「熊に注意って書いてあるよ。大丈夫?」と心配そうな声を出した。「まさか」とは思いつつもはて熊にあったらどうしたらよかったのか?と考えるまもなく携帯で音を出しながら下見に行った松原さん「この先もっと急ですよ」と帰ってきた。やはりかなり深い山であることは確かだ。あとで聞けばそのまま歩くと女人堂に出るという。いつかは歩いてみたい道のりだ。
仕方なく戻ると大門前の駐車場には外人ばかりのバスが到着した。彼らはこの時刻にここにやってきてきっと今夜は宿坊に泊まるのだろう。そういえば今回の旅で気が付いたのだが外人のそれも就学前の子供連れ家族が多い。英語だけではなくフランス語、ドイツ語と聞こえてくる。新宿駅で松本行の電車を待っている際も「1か月日本旅行します」というフランス人一家とおしゃべりをした。3歳と5歳児を抱えての旅行は大変だろうが「日本は便利だし皆親切」と言っていた。子供たちの潜在意識に何らかの影響があることを祈る。

大門からは歩いて下山するコースもある。「山を登ってきてこの場所にたどり着いたらどんなにか感慨一入だろうね」と思い仲間と話していると「下山するのに7時間かかりますよ」と隣の旅人が言う「そこを弘法大師は月に9回お母さんに会いに下ったのでこの山を九度山というのです。」

なるほど!空海の山地を駆け抜けるそのスピード、山伏のような行者の一面は若くから山に入り修行を求めた彼の生涯を通じて言えることかもしれない。
空海がその生命力とスピードと政治力を使って高野山を築いた。しかし1200年後にこのように栄えるとは考えただろうか?とにかく彼はその「土台」つくりに毎日奔走していたに違いない。

方やバッハは家族を養うためにあの膨大なカンタータをほとんど殴り書きのように日曜礼拝の為に書き続けた。200年以上たった今、世界中の人たちが「音楽の父」と愛してやまない存在になることを彼は一度でも想像しただろうか?存命中の彼はのちにメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を発見して世に公表するまでは、むしろ「クリスチアン・バッハのお父さん」という見方をされていたらしい。

洋の東西を超えた、時空を超え分野を超えた2人の巨人の日常の営みはきっと確固とした信念に裏打ちされていた繰り返しと集中の時間だったのだと思う。
和歌山、という軸に自分を置いてみると世界が違って見える。夜更けに入ったラーメン屋さん。味はとんこつ醤油。これは中央構造線に沿って四国に存在するという。その時出会った民生委員の彼らは狭い店に入った我々を見た途端、「友達」と餃子を分け、ビールを分かち合った。あとで聞けば土佐では「同じ囲炉裏に座ったものは家族」という感覚があるらしい。
日本の歴史上誰が好きか?と言われれば「空海と龍馬」と答える。
私自身両親が山形出身で私は東京生まれの東京育ちだ。
しかしながらこのところ友人に関西出身、または四国出身の方が多いのは偶然ではない。何かしら空海の霊に引き寄せられたとしたら本望だ。

そういうわけでこれから洋の東西の巨人についておりに触れて考えていきたいと思っている。

                       2014年11月1日東京にて




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