宮沢賢治とボヘミアの香り 透明な力

東北大旅行だった。
子供たちを連れての春休み。
実家での1週間を終え、いざ東北へ!
山形河北町、紅花資料館、ここで道子は油絵シリーズ17枚の最後になる絵を描いた。というか居間からヒントを得た。矢作さん自らの江戸-明治への移り変わりの話をたいへん興味深く聞く。
古樅園…大きなモミの木があるお屋敷、ということだそうだ。
春うららの何ともよい時間が過ぎてゆく。畳に寝そべって絵を描く娘。それに付き合ったり、うろうろしながら持て余してお堀の鯉に餌をやる息子。まったく17歳になっても子供のままだ!「鯉の頭撫でられるよ」と運転手さん。

そのあと仙山線の時間にまだ余裕があるというので慈恩寺に寄ってもらった。河北町のある東根に対して西根、山のふもと、付け根のようなところにできた集落。それにしても今日はなんという山々の姿だ。霞ひとつ、雲一つない晴天に初春の空気が澄み切っている。横たわる月山、朝日連峰はもちろんのこと、反対側の蔵王のおかま付近までくっきりと見える。雪をたたえた山々に「囲まれた」ところ・・・わがふるさと・・・

慈恩寺は葬式を出さない寺なのだという。檀家がいない。しかしながらここに収められている仏像は群を抜いて素晴らしい。素晴らしい山門を通り,本堂の中をみせていただく。本尊阿弥陀三尊、バラモン教のお寺だという。聖徳太子の像もある。それに天井いっぱいに書かれた絵馬もすごいものだ。
外に出て・・・昔子供のころ夏休みに田舎に来た際私が鐘をついたように、10年以上も前まだ小さかった子供たちも鐘を突いた。今度もやらせてもらった。というか勝手に突いてた!このような素晴らしい寺にだ~れもいなくて思う存分鐘をつけるなんてなんという贅沢だろうか。釘一本使わぬ三重の塔も興味深い。一生懸命床下を覗く運転手さん。聞いてみると「塔の中心になる柱、大黒柱を探している」とのこと。まったく日本宮大工のすばらしさは近くで見てみてますます納得できる。
木の建造物は手をかければ何世紀も持つ。

夕暮れの山寺暮色…電車を待つ間の風も冷たいが心地よい。

仙台に泊まり、翌日は一関下車、平泉中尊寺から始まった。
田村さんという私の30年来のマネージャー平佐さんの知り合いで昔北上さくらホールでもお世話になったことのある方が案内してくださる。ありがたいことだ。

これもまた雲一つなき晴天の下、汗をかきながら坂道を登る。
1200年以上も前から築きあげられてきた中尊寺伽藍、金色堂ももちろん素晴らしいがなんといってもみちのくの春に配置されたお寺の数かずの間を縫って歩く気持ちよさ。竹林の風の音。雪の重みで竹の先のほうがしなだれてちょうどトンネルを作っている。京都、奈良のたくさんの人出に比べて月曜ということもあってかほとんど観光客は我々のみだ。ここそこに昔の人の知恵、思い入れが感じられる。今でも使われている能楽堂では毎年8月14日に能が奉納されるという。ちょうど父の命日だ。一度は来てみたいと思った。

花巻でわんこそばを食べた。中学の頃、ヴァイオリンの合宿できて以来だ。おいしかった。私は28杯、左門は38杯、道子は25杯、田村さんは35杯。

そのあと宮澤賢治記念館に行く。今度の旅の一つの目的でもある。
細々ながらブリュッセルで日本語を続けている子供たち。その彼らのやっている教材が「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」日本語の勉強なら見てやれると私も覗くことが多いのだがそこで新発見。こんなに三次元の世界を行っている話だったかしら?いったい時空を超えて生と死を超えて?あるいはあくまで階級制を風刺した書き方・・・
一気に宮澤賢治に惹かれていた頃、やはりブリュッセルで毎年行っている「復興コンサート」のプログラムを作る折りに目にした河北新報の「透明な力」に圧倒された。これは賢治の「春と修羅」という詩編に出てくるものだ。≪稲作挿話≫
途中からだが引用する。

これからの本当の勉強はねえテニスをしながら商売の先生から
義理で教わることでないんだ
きみのようにさ
吹雪やわずかな仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさようなら
・・・・雲からも風からも
    透明な力が
    そのこどもに 
    うつれ・・・(1927.7.10)宮澤賢治
 復興コンサートにプログラムにはこれを英訳して、それから森健さん編集の被災地の子供たちの作文集から絵と題名だけ抜き取って載せた。

今その人の故郷でイーハトーブの公園の中で彼の弾いたチェロの中で、宮沢賢治の全人格を改めて感嘆して眺めた。農学者、鉱物の知識、宗教へのこだわり、エスペラントの世界語研究、
チェロが奏でるドヴォルザークのトロイメライ、いみじくも息子左門は「ママなんでこういうの弾かないの?」「・・・」
一番心に染み入る音楽は強さではなくやさしさだ・・と彼は言いたかったのだと思う。

イギリス海岸にも行った。北上川のほとりだ。あいにく雪解け水で川は増水していて海岸風景を見るには至らなかったが、ここで生徒たちと鉱物の話をして、地層の話から昔海の底にあった化石を発見。プレートなどという言葉を知らなかった賢治が大胆にも立てた仮説、東北の一部は昔海の底だった、の境界線が今では立証されているという。
星空を眺めて「銀河鉄道」の構想をたてたという。

その日は花巻温泉泊まり、浴衣の似会う子供たちを見て心がなごむ。

2日目、田村運転手!の運転で今度は萬鐵五郎記念館へ。
全くの偶然から本当は閉まっているはずの記念館に入れてもらった。萬さんは私たちのご近所でもある。日本最初のキュービズムの世界を打ち出した彼は学校では落第点をつけられていたという。素晴らしい絵だ。

遠野へ…途中北上川を常に横に見る。
それにしてもこのように雪を頂く山々を遠くに、そしてきれいな色の川に田圃…これ以上の日本の原風景はあるだろうか。
めがね橋では石投げをして、ジャンプして、こちらまで子供に戻った気分だ。透き通った川の底がきらきら光っている「もしかして砂金?」というとどうもそれは昔から小学校の校庭にもある光る石とのこと。きれいだったなあ~

遠野・・・・柳田國男の遠野物語で有名になった。ひなびた田舎である。
ここでまたまた出会いがあった。村上睦子さん、
おいしいお昼を頂き、お茶の作法をおしえていただき、それからカッパ渕に連れて行ってもらった。カッパおじさんの面白おかしい話はなかなか含蓄もある。子供たちもどうやら理解しているようだ。今回の旅の目的はそんな私以外、知らない人たちの日本語に触れる、ことでもあったのだから。噛み砕いて皆様説明してくださった。子供たちのちょっとおかしげなイントネーションも言葉使いも多めにみてもらった。おかげで彼らは2週間滞在中にだいぶ日本語にも自信をつけたのではないかと思っている。

人との出会いとは不思議なものである。
さっきまで全く知らなかった人なのになんだか旧知の間柄のようにお話をさせていただく。お宅に寄せていただく。お手前を御教授いただく。この旅の何よりのお土産がこうやった出会いだった。


カッパ渕で日が傾いてゆく。山の向こうにおひさまが沈む・・・

ここから釜石へ、被災地を見せたいことも私の頭にあった。

釜石のケーキ屋さん、亀山さんに会った。おいしいケーキを皆で食べコーヒーを戴く。津波の日、すべての機材をそろえていた海近くの店は流されたという。それでも炊き出しならぬ残った本店にあるものすべて使いみんなのためにお菓子を配った。死んだ親の代わりに「孫のためにアンパンマンのお菓子を作ってほしい」と言われた。とそれが報道されて田村さんも「あ、亀山さん生きている」と知ったという。多くの人たちがそのような日を持った。

ケーキ屋さんから車で20分。被災地のあとは片付いてはいるもののそこらじゅう丸バツのついた家屋がある。「全壊、使用不能」というサインだそうだ。盛り土がしてある小学校跡。3年たったとはいえまだまだ大変な道のりだ。
子供たちは必死で写真を撮り始めた。日本の原風景など見向きもしなかったのに!

宝来館、釜石近くの海のそばに立つ旅館だ。もうだめか・・と思ったけど何とか再建したという。建物も十勝沖地震を経験した女将によって以前から鉄筋コンクリート4階建てになっていた。それで助かった。またここでは「ひとりてんでんこ」という言葉があり、「一人ずつバラバラでいいから逃げなさい。それがみんなのためだ」という教えがあったという。津波の歴史のあるこの土地で長野から来た先生がその教育に取り組んでいた。その訓練のおかげで99.8%の小中学生が助かったという、釜石の奇跡。逆に「防災センター」と名付けられた建物に逃げた大人たちは助からなかったという・・・災害、津波はいつも「予想以上ですよ」「ハザードマップなんてあてにしてはダメ」という。


子供たちも真剣に聞いている。
彼らは海についた時から暗くなるまで海にいた。亀山さんの話を聞いていた。
「身一つあればあとはな~んにもいらないよ」説得力がある。

今朝も三重県から見えた視察団体に話をなさっていた。備えあれば憂いなし…今や日本中真剣だ。
「でもね、ここではもう堤防は作らないことにしました。堤防があると油断して逃げ遅れる。代りに高いところに道路を作るようお願いしてるんです」と女将さん。

佐渡裕さんが連れてきた「スーパーキッズ」の弾くヴァイオリンの音に全身から涙が出た、なんだかみなさんの思いが私の体を通って降り注いで涙となってほとばしり出たようだったとおっしゃる。思わず,宮沢賢治の「透明な力」の詩を思い出した。それを奏でた女生徒も「音楽にはこんな力があったのか」と実感したという。

つくづく私たちが4年来ブリュッセルでやっている復興コンサートも「ここまで届かなければダメだなあ~」と思ってしまった。


陸前高田は整地作りの真っただ中。1キロ以上離れている山を切りくずし、橋を架けその土を運ぶ。壮大な計画だ。その中に奇跡の一本松が立っていた。付近のひしゃげた建物が当時の様子を物語る。昨日から風邪をひいてのどが痛くてつばも飲み込めない私にこの北風、海風は堪えた。だが私は帰るところがある。被災した3月11日はもっと冷たい風が吹いていたのだろう。そのあと避難所で風邪をひいたって帰るところはないのだ・・・なんというか些細なわが事と比較してその大変さに改めて愕然となった。

「ママ、そういえばこの頃ヴァイオリン全然触ってないね。だから風邪ひいたんじゃない?」と子供たち。心配もしていない。ぶるぶる寒気の中温泉に入り観光旅行したこともいまだかつてなかったが・・・それは単に風が冷たいといった気候の変化だけではなくあまりに強烈な印象からくるものだったかもしれない。

後日ちょうど陸前高田市の高校生の合唱を聞く機会があった。驚いた、その生命力、生き生きとしたフレーズ。なにか私たちが忘れている、かけがえのないエネルギーを彼らは見つけたように思えた。大震災という、悲運から身一つで立ち上がった彼らの歌声は美しい。きらきら光る彼らの目を見て私はまた宮澤賢治の「透明な力」を思い出していた。

子供たちも学校が始まるので春休み終わり、ブリュッセルに帰って行った。

3週間ぶりにヴァイオリンを弾いた。戻るまでだいぶ時間がかかってしまった。

今ドヴォルザークの4つのロマンテイックな小品を弾いている。
以前から弾きたかったのだが、なかなかプログラムに入れるのは難しくためらっていた。
それこそ息子左門がいうように「ママ、なんでこういう曲弾かないの?」の部類に入る、心に染み入る小品だ。

4曲目、何とも寂しげ気な同じリズムが重なって、重なって、昇華して、しかしやはりあきらめて・・曲は閉じる。

昨日共演する海老彰子さんと合わせていてシャンソン歌手Jaques Brelの「ne me quitte pas」という曲を思い出した。「捨てないで…行かないで」というフランス語だ。かなり女々しい・・フランス男の心情が表れる。

今日はそれに宮沢賢治が重なった。東北のさむ~い冬の中情熱を持ちさまざまな「あこがれ」をかかえ、はにかみながら、ひたむきに生きた彼。寒さ、極貧、飢饉…言葉だけではわからないけど行ってみて、それも季節の良い時の贅沢なのだが、少しだけ想像することができた。他にも新渡戸稲造、萬鐵五郎、棟方志功、石川啄木、・・・・数え上げればきりがない人たちがたくさんいる。な~んにもないような田園風景の中から生まれたのだ。

そうか~ボヘミアはヨーロッパの東北なのかなあ~ドヴォルザーク、ブラームス、バッハもそう遠くはないなあ~

パリが京都ならばロシアまで行かぬともボヘミアは東北あたりかもしれない。
そう思ったらチェコフィルのメンバーの顔が浮かんだ。あんなにうまいのに恥ずかしそうに私に挨拶してきた音楽家たち、似てるとこある!

古今東西抒情にはかわりなし。
どこでも夢はみることができる。
どこでもつきつめられる。

私はまた音に仕込むことにしよう。

2014年4月末  東京にて

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