ブラジル
初めてブラジルに行った。
危ないわよ、という声、
いいなあ~と言う子供たち
日本に行くのとは一味違う大陸横断旅行、というより大西洋を越え、南米に行くのは2006年のアルゼンチン以来だ。
ちょうど発つ前日にマルタ・アルゲリッヒの家に遊びに行った。今ブラジルにいるネルソン・フレールに届けてもらいたいものがある、というのでそれを取りに行ったのだ。
いつものように彼女の家にはたくさんの友達がいた。マルタと会うのは1年に2度ぐらいしかないかもしれないが会うといつも一生ものの会話になる。
先回は私の誕生日に来てくれた!
「ブラジル、サンパウロ?アルゼンチンとは違うわよ。オケはいい」と彼女。
着いてすぐ携帯メールで「無事着いた」と書くと「どう?元気?ブラジルにいて嬉しい?」と返事が来た。
彼女に「comment ca va la vie?」(どう、元気?)と聞かれるといつも他の人には言えないようなことまでぺらぺらとしゃべってしまう・・・同じ都市に住んでいながら、しかしそうはいってもほとんど彼女がここにいることはないのだが、こうやって会話が始まったのは15年ほど前のことだ。
「 tu es contente ?」(あなたハッピー?)
これはなかなか大事な事なのだ。
そして毎回は言えないせりふだ。
「旅が疲れたでしょう?オケどう?」ではなく一言「あなた満足してる?」
彼女とネルソンと一緒に日本で演奏会をやったことがある。2003年のアルゼンチン救済コンサートの時だ。終わってからひょいと「そういえば今マイスキーもここにいるよ」と私が言ったのに返して「ここ?神戸?」とマルタ。彼は東京だか大阪だかでその時演奏していたのだが、私はガイジンから見た「日本」という大雑把な見方しかしなかったのに対し彼女にとっての「ここ」とは現在地、神戸でしかなかったのだ!
ブラジル、サンパウロの現在、そこで満足しているか?
先回山形EU委員会来訪の中で「その時々の初心を忘れず」の世阿弥の言葉を引用した。
今度ほどそれを各ステージ、場合によって再認識した旅もなかったかもしれない。
さて前置きが長くなったがブラジルの日々はまず長い飛行機旅行から始まる。
日本とは正反対の時差12時間、ベルギーからだと5時間の時差になる。旅はこの頃よく利用するBA Flat seat でロンドン経由でもそこから11時間半、ちょうど東京に行くのと変わりはない。機内でひょいと見た(飛行地図)にバイカル湖もウラル山脈もなくて海の上、やっと「あ、そうだった、今回は違うのだ」と思ったりした瞬間もあった。
朝の5時に着く。ブリュッセルでヴィザを取るのもなかなかしんどかったのでどうぞ何もなく通過しますよう・・・入国審査は難なく通り今度は税関だ。フランクフルトヴァイオリン押収事件以来、書類は揃っているのにいつも緊張する・・・今回はリキッド[水類]を持っているのでちょっと・・と思いきや「you,go there」と審査対象にされる。ヴァイオリンを見て「それ何?」という。「はあ、またか~~」と半ば覚悟を決め何やらスキャンの機械を通す。そのあと審査を待っている人達の列があり商品などをことごとく調べられている。それを見て「こりゃだめだ!せっかく持ってきたけど取りあげられたらおしまい」とマルタからの預かり物が心配だ。しばし待っているとまた「セニョリータ・・saida サリダ)と後ろから誰かがわめく。ポルトガル語が全く分からないが「サリダ」はイタリア語でも「exit」出口。
やった!とばかりに足早に税関を出た。なんだ、またヴァイオリンがマシンガンか何かと間違えられたのだ・・・・とあとから思った。
無事入国できるとそこには数限りないドライバーの数。その中から私宛のプラカードを持ったアントニオさんを見つける。50歳ぐらいの気のよいおじちゃんだ。
よかった~~
空港を出る。
初めて外の空気に触れる瞬間だ。思ったより涼しい・・というか寒い。
ポルトガル語しか話さない彼との珍道中がこのあとずっと続く箏になるのだがその彼が最初に発した言葉が「ポソデフリオ」(poco de frio )frioはfroid [仏]
co がソに近い発音に聞こえたが両腕をこすり合わせながら言う動作だったし「寒い」と言うことだろうと思った。こうやって言葉と言うのは身に着くものだ。
ホテルまで1時間余りの道のりを走る。朝6時、もうかなりの車の量だ。それに後から後から道が交わってくる。ビルにはそこいらじゅうに落書き、娘の道子がいたらどんなに喜ぶだろうか!今大学でグラフィズムの勉強をしている彼女はグラフィティー・・・要は落書きなのだがそれにも非常に興味を示している。
あ、ホテル、と思いきや病院、そういう例が3回はあった。朝早くから人々は集う???ずいぶんにぎやかな病院光景だったなあ~
結構きつい坂を登るとAvenue Paulistaサンパウロ人、という意味の大通りに着く。官庁街、銀行も多いモダンな地区だ。これならば一人で出歩いても大丈夫だろう。
その横道に入ること15メートル、Golden TulipHotel,1週間の我が宿に到着。
とりあえず自由な今日はこれでドライバーともさようなら。わかったのかわからないのか明日の打ち合わせ時間を確認して、ホテルに入る。
木の床、広い部屋、しかし暗い・・・何度か部屋を変えて少し上の階にしてもらった。それとお風呂付・・・そうリクエストしてあったのだが、その風呂付の部屋を探す事も難しかったように、実際ここのお客はあまり風呂を使わないらしい・・・やっと部屋も決まり、さてお風呂に水を張ろうとしたら栓がない!
そこからまたお風呂の栓を理解してもらうまで10分。ちゃんとメードが持ってきた!
英語は反アメリカの気質がどうしてもあるから使わない方が良い、と言われてもフランス語も全く駄目。日本語もいくら大日本人社会があるとはいえ一般の人には通じない。ホテルで英語を話すのはレセプションだけだった。あとは現場で身ぶり手ぶり、あるいは書く?そういえば以前もう20年以上前になるが、スペインで中華料理屋に入った事がある。向こうは英語話さず、私スペイン語もわからず、鳥を焼いてごはん、というのを漢字で書いたことがある。きちんと希望のものが出てきた!
私の部屋のドライヤーには日系企業が作ったのかカタカナで「タイフー」と書いてあった。たしかにタイフーのような風がでてきた!
飛行機で思いのほかよく休めたのですぐ街に出てみる。「アブナイ、アブナイ、決して独り歩きはするな」と言われて出てきたが何のことはない、みな一人で歩いてるし、路上で寝てる人もいるけれどこっちもあっちも我関せず。コーヒー屋がいっぱいある、お店は朝早くから皆開いている。大きな本屋があった。
あちこちに座り心地のよいソファが置いてありみんなそこで思い思いに本を広げている。朝っぱらからいいなあ~と思った。CDコーナーがあった。友人のアントニオ・メネセス。またマリアジョア・ペレシュのCDを購入。何もブラジルまで来て買う必要もないのだがとにかく贅沢な(一人時間)だ。それに今共演するClaudio Cruzと一緒のエルガーコンチェルト、是非今聞いてみたいと思った。
ホテルに戻りお茶でもと思っていたらもう昼食の時間だ。レストランにはおいしそうなビュッフェが用意されていたが何しろお腹もすいていない。(お茶)と言うと、これもあとからの発見だったが、なかなか出てこないのだ!「ふつうのミルクテイー」にするまで「カマミール?ミントテイー?ロイボステイー」となるが紅茶はない、という。さすがにホテルではすぐ出てきたがこの後の滞在で、おいしいコーヒーはただでどこでも飲めたけれどお茶と頼んだ際の難しさは思い知ることになった。バーの高い椅子に腰かけて・・えっちらおっちらやっていると、レストランの人が駆け付けて「大丈夫ですか?May I help you?」と来てしまった。よっぽどみっともなくなんだか東洋人がよじ登ろうとしていたのだと自らおかしくなって、そばの普通の椅子に座った!
ホテル生活も一人時間もいいが食べる時はなかなか緊張が取れないのも事実だ。以前ジェットセッターで世界中を飛び回っていた頃もこの食事時間に本を片手に食べる事は決して好きにはなれなかった。おのずからルームサービスも多くなりホテル内だけでの食事になる。とりわけ「外はアブナイ」と言われればなおさら夜には出歩かないようになる。
幸運な事に時差もあって夜は早く眠たくなる。時差5時間ヨーロッパより遅い。だから夜の8時にはもう夜中の1時ということだ。それになんとNHK-TVが24時間リアルタイムでやっている!なんだか母国語を聞きながら寝てしまった!「気を使って今まで電話をしなかった・・」というオケの人が8時にかけてきたら「だれがこんな真夜中に!」と思ったものだ。
2日目から「マスタークラス」が始まった。どんな子供たちが来るのか楽しみだ。またアントニオの運転で学校まで行く、道中街中のありとあらゆるところにあるグラフィティーに目を見張った。まるで壁は絵を描くための空間のようだ。それに立体交差になった車道にも低いところから交わって細くなる部分まで一体誰がいつ?と思われるような繊細な絵が施されている。写真を撮りたいが走っている車からはなかなか思うように行かない。それでも何を撮っているんだろう?とアントニオ。「グラフィティー」と答えると「あ、どこにでもあるからね」
学校はちょうど我々が演奏するSala Sao Pauloの斜め向かい、ビルの一角にあった。なんでも楽器を買えない人達にも楽器を提供して、音楽教育をしているという。ヴェネズエラのエル・システマと同じような教育活動だがここはもう少し普通、学校から直接バスで大量に乗り入れなければいけないほど治安は悪くない。生徒たちはみな地下鉄やバスで通ってくる。
バッハのアルマンダ、シベリウスのコンチェルト、モーツアルト、ウィニアウスキー、メンデルスゾーン、ヴィタリ、等々2日間14歳から21歳まで、11人の演奏を聞いた。
皆テクニック上の問題はあるが一様に音が良いことに驚いた。楽器の良しあし、テクニックのでき具合はレベルが違うとしても(音色)と言うのは声のように個人個人違う。彼らの出す音が皆「ラテン系」で明るいこと。決して汚い音を出さないことは貴重だ。それに歌心がある。みな目をキラキラさせて私の話を聞く。また恥ずかしそうに弾き出す・・それも大好きだ。なんといっても「showing off」が大嫌いな私!
私はそれまで、道を歩いていても、またホテルの部屋でもその暗さも手伝ってか、そこから見える壊れて朽ちた建物がある景色からか、あるいは旅の疲れか、思っていたより低い気温でちょっと寒くて風邪をひいていたせいか、ともすればラテン、サンバの国、といった明るさよりはポルトガル語のサウダーデ・・郷愁、哀しみのようなものを感じていた。
学生の音を聞いて、そしてのちにオーケストラの音を聞いてやっと「やはりここは南米だ!」と実感した。
とにかくみんな必死だ。言う事言うこと砂に水がしみてゆくかの如く吸収していく。気持ちが良い!通訳を通していろいろ質問してくる。私も初めて会った人達ではなく自分の生徒たちに教えるようにレッスンした。嬉しかった。
3日目オケの練習に出かけた。夜6時となるともう薄暗い。湿気はそんなにないけれどちょうど日本の10月、初秋のよう、肌寒いくらいだ。
オケの練習場はやはりなんだか全然わからない駐車場から入り、子供たちの遊ぶ歓声絶え間ない中にあった。なんだか久しぶりにこんな子供たちの遊び声を聞いた気がする・・・
それでも各所に張り巡らされたフェンスや金属の門。やはり治安には気をつけている。だから道で遊んでいる子供たちもいなかったのかな?治安といえばやはり各ビルディングに警備の人がいる。駐車場はほとんど皆地下だ。
私が練習場に入って行くと口笛ヒュウヒュウ、歓声しきり、
びっくりした!
こんな歓待を受けたことも今までにない。
きのうのマスタークラスの評判がよかったのか・・・さすがブラジル!
シベリウスのコンチェルトを弾く。オーケストラパートは譜面は難しくないが合わせるのは難しい。指揮者にとってもなかなか手ごわいコンチェルトの一つだ。
指揮者のClaudio Cruzさんは、ヴァイオリニスト、シベリウスも何回かソリストとして弾いたことがあると言う。それに「3日前に日本から帰ってきました、日本のオーケストラは素晴らしいですね」と言う。12時間の時差ではさぞかし眠かろうと思う。昨日購入したメネセスとのエルガーチェロコンチェルトはオーケストラも素晴らしかった。さてどんな音がするだろう?
と練習が始まってまたびっくり!
最初のトウッテイになった時のヴァイオリン連中の音がまるで怒涛のようだ。
一体(言っちゃ悪いけれど)そんなに質の良くない楽器から、どうやったらこんなにエネルギッシュな音がでてくるわけ???音楽に対する情熱そのものがぶつかってくる。ほとんど負けそう!こちらも懸命に対応した。凄い!!
いつも私はオーケストラとの練習の際、オケ側を向いて弾く。特に練習初日はこうやって直接オーケストラの皆さんとコンタクトを取る。指揮者にとってはそれが「仕事妨害」のように感じる人もいるようだが、要するにどんなコンチェルトも室内楽が大きくなったもので、一緒に弾く事には変わりないと言うのが変わらぬ私の考え方、音楽への接し方だ。だから最大限のコンタクトを取りたい。
その際彼らがどれだけ聞いているか、一緒に弾こうとしているかも如実に分かる。
この学生オケ「Orquestra Jovem De Estado」はどこの誰を見ても皆が私を見ていた。最後方の人達も皆目が集まっていた。だから目を合わせるだけで全てコミュニケーションが取れた。
これは稀に見る事なのだ!!
それぞれのフレーズの弾き方、曲の解釈、バランス等は指揮者に安心して任せられる。彼も必死に「一人で下向いて弾くんじゃない、みんなで弾くんだ、聞きあいなさい」と口を酸っぱくして言う。なんという良い指導者だろうか!!それも「怒りつけるのではなく説明する」みんなが彼を尊敬して集まっているのが良くわかる。
休憩時間には私の周りは10人、20人の学生たちで埋まった。「ビブラートがかかりにくいんです。どうしたらいいですか?」「スラースタッカートはどうやって練習するんですか?」英語ができる子たちが何人かいて通訳。それこそ練習が終われば(はい、さよなら)と帰る通常のソリストパターンからは程遠い。そういえば今年正月に活元会のあとバッハを弾いた。なりやまぬ拍手の中で(適当に)演奏を止めてしまったけれど今回も(適当に)止めなかったらあの質問はず~っと続いていただろう。
練習後の口笛と手拍子で「ビス、ビス」とアンコールを迫られ、弾かなかったけど「本番後ね~」と言った約束はきちんと果たした。
4日目はサンパウロから2時間あまりのPiracicabaという大学街で演奏会があった。
初めてサンパウロを離れ少し内地に入る。太陽はぎらぎら、中心に流れる川は大河を思わせる。滝のように流れる川の速さ、ブラジルーアマゾンと連想は広がる。その昔にはサトウキビ工場だったという朽ち果てた建物の横にコンサートホールはあった。なんでも今日がオフィシャルには初の演奏会だと言う。一体お客さんなんて来るのかなあ~~
暑い日差しも夕刻にはセーターが必要な肌寒さになる。ちょうど満月、空を眺めたら星空・・なのだが星座は全く分からず(そうか、南半球だもんなあ~)と妙なところで始めて納得した。
21時、お客さん20人ぐらい?と思いきや15分後には300ぐらいの会場をほぼ埋め尽くした聴衆。学生オケにとってはまたとない練習本番の機会だ。
その上素晴らしいと思ったのは彼らはそこに泊まり翌日練習をした事だ。明後日のサンパウロでの本番のために。このように音楽生活というのは続くのだ。本番だけが目的ではない。
その歩みが大事なのだ。全てわかってマエストロ・クルズに指導されている彼らは幸せ者だ。今わからなくてものちのちの大変な財産になること間違いなし!
本当は彼らと一緒に泊まって語り合いたかったけれど私はサンパウロに戻った。
次の日は初の(休養日)で時差も季差も諸々取るべく寝た!これも最重要条項の一つだ。
練習・・しなくてはいけないのだけれど、その前にあまりの好天気で外に出た。初めてホテル以外でサンドイッチを買って外の人々を眺めながら食事。やっと慣れたかな?心の目が開かれてくると今まで見えなかったものが良く見える。なんだ、こんなにいっぱいきれいなものがあったんだ~サッカー少年左門へのティーシャツ、娘へのグラフィティーの本、パパにも何かないとなあ~と夢中で家族へのお土産を見たてる。
練習して・・・明日弾くサラ・サンパウロの会場で今日は演奏会を聞く。ちょうど、ハインツ・ホリガーとトーマス・ツエットマイヤーが来てホリガー自作自演「Gesang der Fruhe」とシューマンのコンチェルト、シンフォニーを演奏した。会場は見事なつくりだ。音響も非常によい。10年前ぐらいに建てられたと言う。初めて体感するサンパウロの聴衆達。南米の人はブエノスアイレスでも感じたが皆プライドがある。そしてそれが決してヒポクリット[偽善]ではなく見える。
きちんとドレスアップしてやってくる。学生たちはそのまま、
ホリガーの一曲目「シューマンへのオマージュ」のようだ。そこからコンチェルトへの連携も抜群だ。そして久々に聞くトーマスのシューマンの上手かったこと!!お客様は熱心に、しかしなんというか安らいだ感じで聞いている。中には途中で出ていく人もいたけど皆あまり気にしないらしい・・・
大きな空間の中で音楽に身をゆだねる心地よさは何にも代えがたいかもしれない。
なかなか音楽会に行く事のない私だがこれも(一人自由時間)のよいところ。多いに楽しませてもらった。
今年の3月11日にウィーンフィルがブリュッセルにやってきた。Japanese week in Brussels 2013の一環として(日本のために)とシベリウスの小品を弾いてくれた。そのあとブルックナーの8番に続いたのだが、前から4列目というほとんど演奏家と化した席で彼らの音に身を任せた時間はちょうど34年前にカール・ベーム指揮のウィーンフィルを徹夜して並んで切符を買い、一番前の席で聞いたシューベルトのグレート交響曲の時を思い出させた。
演奏会が終わって・・・無事打ち合わせ通りに「ネルソンへの渡し物」の方とも会う事ができた。なんと彼女Gloria Guerraがマネージャーだったとは知らず。おいしいピザをつまむうちに話す人、話す人皆共通の知人だった!(世界は狭いねえ~~)
ブラジル、サンパウロ・・・
あすはここで自らがシベリウスを弾く。鳥肌が立った。
その時々の初心、と言うならばこれほど如実にそれを感じる事もないのではないかと思う。
毎回そう思う。
音楽会とはそういうものだ。
さて演奏会は日曜日。まっさらな秋晴れの朝はどうしても外に出たくなった。練習して腕を疲れさせることもない。意を決して徒歩10分ぐらいのサンパウロ美術館に出かけた。それまでにもAvenue Paulista大通りは日曜ならではの活気にあふれている。自転車専用の道路がある。信号ごとに旗を持った人たちがいて赤は旗を降ろして止まれ。青は直進~
とばかりに旗をあげる。わざわざそこまでしなくても良いのだろうが何しろ車道を走るのだ。これによって自転車専用道が誰にでも認識できる仕組みらしい。
フリーマーケットが出ている。骨董品を扱う店も軒並みある。アンティークマーケット?開いたばかりの美術館は人影も少ない。
久々に名画と対面した。
筆遣いからわかるゴッホの絵。私が22-25歳ぐらい、よくアムステルダム・ゴッホ美術館を訪れた。そのころ住んでいたパリ郊外の住居もAuvers sur l’oise、オワーズ川ほとりのゴッホ晩年の地に近かった。何でもない畑にカラスが舞う・・光景が彼の目を通して驚くほどの恐さを持つ最後の絵。サンレミの精神病院の庭の植物、石のベンチ等何気ない物からあれほど説得力のあるメッセージを伝えるのがゴッホだ。
今回も南米一と言われるコレクションの中からゴッホのもの3点、懐かしさと特別な思いを持って絵の前に立った。昔あまり好きでなかったセザンヌ、逆にモネには何となく失望・・・人間変わるものだ。
とこれもマルタの名セリフ・アバドと共演してきたばかりの彼女にバカな質問をした私「どう?彼変わった?」なんというおこがましさか!を見透かされたように彼女は一言「we all change」
美術館をあとにする。今日でサンパウロ滞在も最後となる。本当はもっとゆっくりしたかったけれど、何といっても本番の日だ。喉に骨がひっかかっているような・・・それでもカフェで一杯・・・隣のスターバックスは行列だ。外に座る席もない。私が入った隣りのポルトガル語カフェでなんとか注文すると、クロワッサンだと思ったのがミートソース入り、それとクリームコーヒー?でお昼、おいしかった!
21時まではまだまだ時間があるのでステージに練習に行く。ここSala Sao Pauloは何と今日3回の音楽会があるという。11時、5時、そして9時、その合間に1時間ほど練習させてもらう。
ステージ練習は大変重要だ。ほとんど10回の練習に等しい。今まで32年間も演奏会を弾き続けてきてそれでも今やっとステージの上で「やばい!」と思うのはなぜ?なぜ練習中に気がつかない???
これまたその時々の初心、をいかに忘れているかを意味するのではないか?
演奏会は数時間後だ。体、腕の疲れも考慮しつつ「打ち切る!」
「わが事にて後悔せず・・」とはいうもののやっぱりうまく弾きたいよねえ~~
送りむかえの行きと帰り、私のムードがあまりに違うのでアントニオさん心配そうだ・・・
さて本番。うまく行ったところもあるし弾けなかったところもある。でもこの回、一回限りの歌い回しもあったかもしれない・・・演奏とはそんなものだ!
お客様は喜んでくれた。
すぐにスタンデイングオベーションになった。アンコールをせがまれ弾いた。もう終わりと思っていたが学生たちの例の口笛も歓声も鳴りやまず、2曲目を弾いた。いつものバッハ・・・
課題たくさんありだなあ~
そう思いつつ次の日サンパウロをあとにした。
「今度いつ来るの?」とアントニオ。
「わからないけどまた来たいなあ」
どうやって言ったか忘れたけれど気持ちは通じたと思う。
みれば「Aylton Senna Highway」とある。
そうだった・・・あの天才ドライバー、アイルトン・セナもブラジルの人。彼にちなんだ高速道路が国際空港まで続いている。それにしてもどこまでも描かれる落書き群・・・
あとで娘に聞いたところ「グラフィティーというのは彼らが寂しいから描くんだよ。アメリカのブロンクスの一番貧しいところから始まった。喧嘩ではなくヒップポップ、グラフィティーでそのエネルギーを暴力ではなく噴出させたのが始まりだよ」と教えてくれた。
そうか~~あながち私が最初に感じた(さみしさ)はうそではなかったのかもしれない・・・
村々の彩色豊かな屋根も壁もそれにグラフィティーもその寂しさながらのもの・・ならばそれを表現する力を持っているのもブラジルだ。
言葉が通じなくても、いや通じなかったからこそ肌で感じあえた人と人の疎通があった。
音楽はそれを一番手短に表してくれる。
Viva Brazil!
また来るからね。
2013年5月1日 ブリュッセルにて