この一週間

年末も近づくなか、なんだか忙しい日々が続きます。日本から戻ってすぐ、コンセルヴァトリの生徒たちを教えました。3週間みなかったのですが、みんなうまくなってました!先生は「いればいい」というものではありません。教え始めた当初は「私がいなくてもうまくなる・・・という事は私は必要ないのだ・・」と落ち込みました。
しかし、かといって5週間続けてみっちり毎週見ても、みんなちっとも進歩しません!「私の教え方が悪いのだ」とまたまた落ち込んだ時期もありましたが、ある日突然!(特に男の子は)なんだか、言っていたことがすべてあてはまってくる。
急に「弾けるようになる」のを目の当たりにして「これは、各生徒の伸び方のちがい。波があること」はもとより、教えるには「時差」ならぬ「時間差」があることを発見したのです。
その『時間』がどのくらいかは、本当に相手あってのことですから、みなさんの「気づき方」次第。だからといって、なにも「仕込まない」と結局なにも変わりません。イヤというほど止めて「しつこく」「何度でも」言います。

生徒との関わりは、ホント人間2人かろうじて育てた「言葉の通じない胎児期から、2−3歳児」までの子育てが、だいぶ勉強になりました。なんといっても、まだ言葉の話せない彼らの要求を「とことん」聞く。こたえてあげる。説明する。
「いつも一緒にいたい・・・という私の欲求から、うちの子供たちは0歳児、3ヶ月から飛行機での、大陸移動が始まりました。狭い機内。とにかく、彼らの「快」をたもつために、飛行機の中の8時間抱っこ、散歩、周りの人たちから「大変ねえ・・・」という声もあがりました。妹、パパには、いつも手伝ってもらいましたし!荷物を作るときも、以前は自分のことさえ考えればよかったのですが、まず子供のもの、食事、衣服の替え、おもちゃ、その他、ドレスと運動靴はいつも一緒!といった生活を小学校にあがるまで、6年間し続けました。(下の子を含めて8年)
「ああ、こんな事やってるヒマがあったら練習したい!!」と内心さけびながら、砂場で「トンネル」ほって遊びました。日本で夏の蒸し暑い中、時差も手伝ってイライラの子供たちを、自転車の前と後ろに乗せて、深夜のドライブ・・・ならぬ、汗だくの自転車こぎ!子供たちは自転車こぎで吹く「涼しい」風のおかげで「ああ、気持ちいい!!」とやっと、顔も心もなごみます。
あのころの私はそでなしのドレスを着ると「土方焼け」のように、Tシャツのあとがくっきり!!とはなんだか、まったく「肉体労働者」です。職業柄ひとところにいる時間がいつも短いので「季節労働者がまた帰ってきましたので、幼稚園よろしくお願いします」と入れてもらった事もあります。
要約すると、私がめざした「子育て」は「注意の集中」だということです。
そして、この「どうしたの?」「なーに?」という注意の集中が、何もまして大切なのは、生徒を教える上でもかなり重要な事だと気づいたのです。

子育て同様!?こちらも手探り。あちらも「どうやって弾いたらいいの?」の状態の時、とにかく注意を集中して「勘」を働かせます。
もちろん技術的なこと、音楽的な原則から各作曲家のスタイル、演奏方法・・・「どう楽譜を読むか?」「それをどうやって音にするか」イコール「テクニック」を教えるわけです。 が、それら全てを一人の人間相手に「身につく」ようにする・・・という事になると、この「注意の集中」が、大きな鍵になるわけです。
何しろひとりひとり、みな「ちがう」のは当然のことですから疲れます。エネルギーを吸い取られます。最初のうちはよくても、もういい加減イヤになることもあります。
まったく20年以上過ぎて私の先生だった、江藤俊哉氏を始め諸先生方の「忍耐力」に頭がさがります。
こちらのリズムとあちらの「見てもらいたい」が、うまく合わないこともあります。3週間放って置かれていい場合と良くない場合もあります。 が、これまた「人対人」のいとなみ。昔、私が学生だったころ、私の師匠江藤俊哉先生は「一人ずつでなければ、教えられない・・・」とふと、もらしていらっしゃったことがあります。
「マスタークラス」もかっこいいけれど、本当は、お互い裸のような心と「弾きっぷり」をさらけ出して初めて、一緒に歩む事ができるというものです。
そして、そういう「きわめて個人的」な部分はやはり、1対1がふさわしい。
そういう意味で、私が教え始めたのは比較的最近ですが、その前に「人ととことんかかわる」という、幼児期のこどもたちとの生活があったことに感謝しています・・・・
なんていうと「あれ?もう子育て終わったの」といわれそうです!うちの子たちは「淋しい」けど体力的にもだいぶ丈夫になってきた。「しょっちゅうママいない」の生活ですが、なんと言ってもまだまだ中1と小5。今年中学に入って新しい学校に変わった娘は「ママ旅行中」といって、みんなが「えー!!どうするの??」と驚いたそうです。

よく「小さい時は小さい問題。大きくなると大きな問題」といいます。
大学受験、勉強不足、将来のこと・・・たしかに社会と関わりあっていくなかでの問題は、自分だけではどうしようもない事が多いし、難しいだろうと想像します。
しかし私は「小さい時」の「勘働きの大切さ」、「大変さ」を思い知っているので、「そんなことないわ。小さいときの生死にかかわる大陸移動に比べれば!」と思ってしまうのです。
家事、常に続く「ママ・・」の声、演奏会があるなしにかかわらず、彼らの要求はせきをきって出てきます。練習は彼らがまだ寝ている朝方に弱音器をつけて!起きてきた息子をひざにのせ正座しながら、ヴィオリンの練習を続ける・・・そのうち彼はまた寝入って、こちらはにっちもさっちも身動きとれなくなる・・・パパは飛行機で「おなか」のマットレスの上で寝られて!身動きとれず10時間!なんてこともありました!相手はぐっすり寝て気分よく起きて・・・こっちは、くたくたになって乳母車を押したこと、も何度もありました。皆さんこれは経験されている事と思います。
でも、おなかのなかにいたときから「音楽会」というと、静か・・・にしていた子供たち。今でも、私の練習場所は「うちの居間」。子供たちは私が練習し始めるとだまってヘッドフォンをつけてテレビ!机いっぱいひろげて宿題、と私にとっては「かけがえのない時間」を一緒にすごしています。ほんと「今のうち!」だけの贅沢!


昨日はパリの演奏会に子供たちも来てくれました。昔の巨匠たちが名演を繰り広げたサル・ガボーで、ちょうどクリスマス前のパリでの演奏会。どうしても連れていきたい!と半日だけ学校休ませちゃいました。このごろは彼らもイヤがるし、シーズン中はほとんど来てもらえません。
たくさんの友人、遠方からのお客様。マルタ・アルゲリッヒもブリュッセルからかけつけてくれて感激です!ジャンマルクとの演奏もなかなかスリルがありました。音楽とは、本当に生き物です。

一夜明けた今日、子供2人と私でノートル・ダムのてっぺんまで登りました。すたすた、ひょいひょい、登ってゆく彼らのあとから、ハアハアしながらついていく私。「大きくなったなあ・・・」と思いながらたどりついたノートルダム寺院最上部からのパリ一望は、感動的です。ズーッと広がる野原にちょっとした小高い丘・モンマルトル。それがパリの始まりの景色であったろうし、これからもずっとそうである・・そんな確かさはとても、「なつかしい」感じがする。と、娘道子。
人間の営み、彫刻に現れる芸術の迫力に圧倒されます。いつもながら「誰がいったいどうやって造ったのだろうか・・・」大きな鐘のしたで、息子が叫びます。「ママ、こっち!!」おろおろ、おたおたしてる親の前で、また駆け足で走り降りる子供たち。

今年もおかげさまで、良い年を過ごさせていただきました!

生徒の話しをしようと思っているうちに、なんだか、こどもの自慢話になってしまいました!
かなりの「親バカ」です。私!

2006年12月21日
ページトップへ戻る ▲